クロンと僕。 클론과 나

1世代

꿍따리ックンッタリ/クンタリ 샤바라シャバラ
(クンタリ シャバラ)

この言葉に、意味はない。
特定の単語でも、何かの略語でもない。
ただ、一度聞いたら頭から離れない。

1996年、クロン(클론クロン / Clon)がこのフレーズをひっさげてデビューした。
デビューからたった2か月で音楽番組「가요톱ガヨトッ10」の1位を取り、韓国全土で「꿍따리ックンッタリ 샤바라シャバラ」を誰もが口ずさんだ。
ユーロダンスという言葉を知らない人も含めて。

これはその二人の話だ。
台湾で国賓のように迎えられた記憶と、バイク事故で奪われた足と、20年後に再会した恋と、2025年の冬に。
音楽よりも重い何かを、二人はずっと一緒に運んできた。
クロンとはそういうグループだ。
「꿍따리クンタリ 샤바라シャバラ」だけを知っている人にも、ぜひその先を知ってほしいと思う。
意味のない言葉が始まりで、すべてが意味のある物語になった。
クロン、という名前が、今も耳に残る。


目次

  • 基本情報
  • メンバー
  • 主要ディスコグラフィー
  • 「꿍따리クンタリ 샤바라シャバラ」誕生の背景
  • 韓国での爆発的ヒットと社会現象
  • 台湾、そして韓流の夜明け前
  • 2集「초련」と3集「로열ロヨル」
  • 2000年11月、事故
  • 5集「Victory」車椅子でのカムバック
  • 20年後の電話番号
  • 2026年2月、病院で
  • クロンの音楽が残したもの
  • マルのひとこと

基本情報

項目内容
グループ名클론クロン / Clon
※英語「Clone(クローン)」から。
二人の動きがまるで複製のようにそろうことが由来
デビュー1996年5月1日
1集「Are You Ready?」
活動期間1996〜2000年(活動停止)、2005年(再開)
プロデュース김창환ギンチャンファン/キム・チャンファン
キム・ゴンモ・パク・ミギョンも手がけた大物プロデューサー
ジャンルユーロダンス / ダンスポップ / テクノ
特記事項1集が国内112万枚超。
台湾・中国語圏で韓流の先駆けとなった

メンバー

강원래ガンウォンレ/カン・ウォンレ|ボーカル・ダンス

1969年12月21日生まれ。
身長183cm。
ダンサーとして名を知られていたところを、プロデューサーのキム・チャンファンに見出されてクロンを結成した。
グループの「声」であり、高身長でスレンダーな体型がそのままグループのビジュアルになった。
2000年11月のバイク事故で脊髄を損傷し、車椅子生活となる。
その後については後述する。

カン・ウォンレは声域の広いボーカリストであり、「꿍따리ックンッタリ 샤바라シャバラ」から「초련チョリョン」に至るまで、クロンの楽曲の「聴かせる」部分を担い続けた。
ダンスパフォーマーとして出発しながら、ボーカリストとしての成長も著しく、2集3集と作品を重ねるごとにその歌唱力は評価を高めた。

구준엽グジュンヨッ/ク・ジュニョプ|ボーカル・ダンス・DJ

1969年9月11日生まれ。
通称「DJ Koo」。
1990年にヒョン・ジニョン(현진영ヒョンジンヨン)のバックダンサーグループ「와와ワワ」でキャリアをスタートさせ(▶ ヒョン・ジニョンと僕。)、台湾公演で出会った女優との縁が、20年後に再び交わることになる。
そのことも、後で書く。

ク・ジュニョプはダンスとボーカルの両方をこなすだけでなく、DJとしても活動しており、クロンとしての活動以外でも、ソロやユニット活動を通じて韓国の音楽シーンに貢献し続けた。
クロンの振り付けの多くを担当したのも彼であり、二人の動きの完璧な同期は彼の感覚から生まれていた。


主要ディスコグラフィー

集タイトル年代表曲備考
1集Are You Ready?1996꿍따리 샤바라クンタリシャバラ国内112万枚超
2集초련チョリョン1997초련チョリョン、궁금해クングメバラード路線へ転換
3集Royal1998아 리 아アリア台湾・中国での最高人気期
4集로열ロヨル Vol.21999슬픈 이별スルプンイビョル活動停止前最後の作品
5集Victory2005Victory事故から5年、車椅子でカムバック

「꿍따리ックンッタリ 샤바라シャバラ」誕生の背景

デビュー曲「꿍따리ックンッタリ 샤바라シャバラ」は、作詞・作曲をプロデューサーのキム・チャンファンが手がけた。
「꿍따리ックンッタリ」は太鼓のリズムを表すような擬音で、「샤바라シャバラ」はリズミカルな呼びかけ。
全体として「ノリよく踊れ」という雰囲気だけが込められた言葉だ。

欧州のユーロダンスが持つ「意味より音の気持ちよさ」という思想を、韓国語でやり切った曲だった。
当時の韓国のダンスポップは、ソテジと아이들アイドゥルが開拓し、DEUXやターボが発展させてきた流れがあった。
クロンはその流れに乗りながら、より「キャッチーさ」に特化した独自の方向性を打ち出した。

キム・チャンファンは、クロンを手がける前から、キム・ゴンモやパク・ミギョンなど1990年代韓国を代表するアーティストを成功させてきた敏腕プロデューサーだった。
彼が二人のダンサーに見出したものは、「動きの完璧な一致」だった。
カン・ウォンレとク・ジュニョプは、まるでコピーのように同じ動きができた。
グループ名「クロン」は英語の「Clone(クローン)」から来ており、その「複製のような同期」こそがアイデンティティになった。

カン・ウォンレとク・ジュニョプはキャリアスタート前からの知り合いだった。
ク・ジュニョプが1990年代初頭にヒョン・ジニョンのバックダンサーグループで活動していた頃から、韓国のダンスシーンは非常に狭い世界だった。
その狭いコミュニティの中でキム・チャンファンのスカウトの目にとまった二人が、クロンというグループの形に結晶していった。
デビュー前から二人は息が合っていた。
それが「複製のような同期」として、ステージの上で爆発することになる。


韓国での爆発的ヒットと社会現象

デビューアルバム「Are You Ready?」は韓国国内だけで推定112万枚以上を売った。
タイトル曲「꿍따리ックンッタリ 샤바라シャバラ」の振り付けは、デビューから2か月も経たないうちに社会現象になった。

当時の韓国では、学校の体育館でも、会社の運動会でも、この曲の振り付けをコピーする光景が見られた。
「みんなで一緒に踊れる曲」という性質は、クロン以前のダンスポップとは異なっていた。
それまでのダンスグループの振り付けは、「プロのダンサーだから踊れる」という要素が強かったが、「꿍따리ックンッタリ 샤바라シャバラ」は誰でもすぐ真似できるシンプルさと、やってみると気持ちいい体の動きが両立していた。

デビューから2か月でガヨトプ10の1位を獲得したことは、当時の業界でも驚きをもって受け止められた。
通常、新人グループが主要音楽番組の1位を取るには、時間をかけてファンベースを積み上げる必要があった。
クロンはその常識を、「一曲の破壊力」で覆した。


台湾、そして韓流の夜明け前

そして台湾。
1998年頃、台湾でのクロンの人気はほぼ国賓待遇と呼べるほどだった。
台湾だけで40万枚以上のアルバムを売り、韓国アーティストとして初めて中国本土で有料コンサートを開催したグループとも言われる。
後に「韓流(한류ハンリュ)」と呼ばれるものの、最初の波は、この二人から来ていた。

台湾での成功は偶然ではなかった。
クロンの楽曲はユーロダンスのビートを核にしながら、言語の壁を感じさせないビジュアルインパクトと踊りやすさを持っていた。
「꿍따리ックンッタリ 샤바라シャバラ」という意味のないフレーズが、逆に「どの言語の人でも歌えるキャッチフレーズ」として機能した側面もある。

1997年〜1999年にかけて、クロンは台湾・香港・中国本土で公演を重ね、アジア各地に熱烈なファンを獲得した。
のちに2000年代のBOAや東方神起が作り上げた「アジアのK-POP市場」という概念は、クロンが1990年代末に台湾でつないだパイプの延長線上にある。
その意味で、クロンは「韓流の先駆け」という言葉が最も似合うグループのひとつだ。

台湾での成功は、クロンのメンバー個人にとっても大きな体験だった。
ク・ジュニョプが台湾で出会った女優との縁が20年後に再び結ばれたことは、単なるロマンチックな話にとどまらない。
「音楽の仕事が運んでくれた出会い」が、人の人生を変えることがある、ということの具体例だ。
1998年、台湾の舞台に立たなければ、その出会いはなかった。


2集「초련チョリョン」と3集「Royal」

1997年の2集は「초련チョリョン」というタイトルで、1集のユーロダンス路線から方向転換し、バラードやミディアムテンポの楽曲を前面に押し出した。
タイトル曲「초련チョリョン」は、ダンスナンバーではなく、ロマンチックな曲調の楽曲で、クロンの新しい一面を見せた。

この路線転換は、「ダンスグループ」というイメージに縛られることなく、表現の幅を広げようとする意識からだったとも言われる。
同時収録の「궁금해クングメ」はダンスポップ寄りの楽曲で、「踊れるクロン」も健在だということを示した。
2集はバランスの取れた作品として高く評価され、1集に続くヒットを記録した。

1998年の3集「Royal」では、台湾や中国語圏でのマーケットを意識した作品作りがより顕著になった。
タイトル曲「아 리 아アリア」は、クラシックの旋律をサンプリングした大胆な楽曲で、欧州音楽とダンスポップの融合という点でクロンのサウンドを更新した。
この3集の時期が、グループとしてのアジア圏での人気が最高潮だった。


2000年11月、事故

クロンが頂点にいた時期に、バイクが一台の車に衝突した。
車が違法Uターンをした。
カン・ウォンレの脊髄が損傷し、下半身麻痺の診断が下された。

韓国全土に衝撃が走った。
グループとしての活動は止まり、ク・ジュニョプは一人でそばにいた。

事故後のカン・ウォンレの状況は、長期にわたる入院とリハビリの連続だった。
当初は「もう二度と立てないかもしれない」とも言われた。
それでも彼は、音楽への情熱を失わなかった。
病院のベッドの上で、クロンの次の活動について考え続けていた、というエピソードは、韓国のファンの間で語り継がれている。

2003年、カン・ウォンレは結婚した。
事故後もずっとそばにいた、当時の交際相手・김송ギンソン/キム・ソンと。
障害を持ちながらも愛を貫いた二人のエピソードは、韓国社会で長く語り継がれることになる。


5集「Victory」車椅子でのカムバック

2005年夏、事故から5年後。
5集「Victory」で、クロンが戻ってきた。
カン・ウォンレは車椅子でステージに立った。

車椅子での活動再開にあたって、二人は振り付けを根本から組み直した。
上半身のみを使ったダンスと、ク・ジュニョプの動きとのコンビネーション。
かつてのような「二人の動きが完璧に一致する」形とは異なるが、新しい形の同期が生まれた。
「障害者も夢をあきらめなくていい」という言葉は、彼が語るとき、言葉ではなく事実になった。

5集「Victory」のタイトルが持つ重さは、単なる「音楽的な勝利」ではない。
5年間の沈黙を破って、車椅子でステージに戻った。
それ自体が、誰にとっても「勝利」だった。
韓国のメディアはこのカムバックを大きく報じ、多くの障害を持つ人々から「勇気をもらった」という声が届いたという。

その後もクロンは活動を継続し、カン・ウォンレはバラエティ番組への出演や講演活動を通じて、障害者の社会参加を訴え続けている。
「車椅子でここまでできる」という実例を、彼は自分の身体で示し続けてきた。


20年後の電話番号

1998年、台湾公演のとき、ク・ジュニョプは一人の女性に出会った。
台湾の国民的女優、서희원ソヒウォン/シュー・シーユアン。
日本では徐熙媛、欧米圏ではバービー・スー(Barbie Hsu)の名で知られる人物だ。
二人は交際したが、約1年後に自然消滅した。

それから20年以上が経った。
2021年、ク・ジュニョプは昔の番号に電話をかけた。
シュー・シーユアンは、同じ番号を使っていた。
二人は再会し、再び交際を始め、2022年3月に結婚した。
韓国と台湾双方で、この純愛の話が大きく報じられた。

韓国と台湾の間には、クロンが1990年代末に作った音楽のきずながあった。
そのきずなが、20年以上の時を超えて、二人の人間の縁を再びつないだ。
これは音楽が起こした奇跡の一つだと、僕は思っている。

2025年2月、シュー・シーユアンが日本旅行中に急性肺炎から敗血症を発症し、48歳で急逝した。

ク・ジュニョプはすべての活動を中断した。
台湾の墓地に、ほぼ毎日通った。


2026年2月、病院で

カン・ウォンレが、ク・ジュニョプを見舞いに行ったと報じられた。
病院の部屋で、二人は無言だったという。
カン・ウォンレが涙をぬぐった、とだけ伝えられた。

クロンというグループ名は「クローン」から来ている。
二人の動きが、まるで複製のようにそろうから。
1996年に踊った「꿍따리ックンッタリ 샤바라シャバラ」の振り付けは、今も二人の体の中にあるだろう。

2000年に事故で足を奪われたカン・ウォンレと、2025年に最愛の人を亡くしたク・ジュニョプ。
それぞれの痛みは別々だが、「それでもここにいる」という事実は、二人が共有している。
2026年の病院で、その無言の時間は、30年分の歴史を抱えていた。


クロンの音楽が残したもの

クロンが1990年代の韓国音楽シーンに残したものを、今振り返ると、いくつかの点が際立つ。

まず、「意味のない言葉が最強のキャッチフレーズになる」という発見だ。
「꿍따리ックンッタリ 샤바라シャバラ」は、具体的な意味を持たないからこそ、誰にでも口ずさめた。
この「音の快楽が意味を超える」という考え方は、後のK-POPにおける英語混じりの歌詞や、意味よりフィーリングを優先したフレーズ作りに通じる感覚だ。

次に、「ダンスの同期美」の追求だ。
クロンの二人がそろって踊る姿は、「なぜあそこまで動きが合うのか」という驚きを観客に与えた。
後のK-POPアイドルグループが重視する「フォーメーションの完璧な一致」という美学は、クロンのような1990年代のデュオグループが作り上げた価値観を引き継いでいる。

そして、台湾・中国語圏への架け橋としての役割だ。
クロンの成功がなければ、2000年代の韓流は別の形になっていたかもしれない。
彼らが台湾の観客に「韓国の音楽はこんなにかっこいい」という体験を届けたことが、その後の多くのK-POPアーティストが台湾・中国で歓迎された土台の一部になった。

クロンが残した最大の遺産の一つが、「ダンスの訓練と個人の苦難の両立」という姿勢かもしれない。
カン・ウォンレは2000年の事故後、ほぼすべてのことを失いかけながらも、音楽と仲間へのつながりを絶やさなかった。
その強さがあったから、2005年の「Victory」が生まれた。
この復活の物語は、単なるエンターテインメントの話ではなく、「人間がどこまで立ち向かえるか」という普遍的な問いへの答えでもある。


プロデューサー キム・チャンファンとクロン

クロンのサウンドを語るとき、プロデューサーのキム・チャンファンを外すことはできない。

キム・チャンファンは1990年代の韓国音楽シーンで最も影響力を持つプロデューサーの一人で、キム・ゴンモ、パク・ミギョン、クロンと次々にヒットを生み出した。
彼の特徴は、「欧米の最新サウンドを素早く吸収し、韓国の大衆向けに最適化する」ことにあった。
「꿍따리ックンッタリ 샤바라シャバラ」も、欧州のユーロダンスのエッセンスを抽出し、韓国語の語感に合わせてゼロから作り直したような楽曲だった。

キム・チャンファンとクロンのコンビが1990年代後半に生み出したサウンドは、後に「1세대セデ(1世代) K-POP」の代名詞として振り返られる。
その意味でクロンは、アーティストとしてだけでなく、「プロデューサーとアーティストの協働でポップミュージックを完成させる」というK-POPの基本形を体現したグループでもあった。

1集の大ヒット後、キム・チャンファンがクロンに求めたのは「ダンスグループのイメージを超えること」だった。
2集でバラード路線を打ち出したのも、3集でクラシックのサンプリングに挑んだのも、「ヒット曲の一発屋で終わらせない」というプロデューサーの意図があった。
そのおかげでクロンは、5年間の活動を通じて複数の作品にわたって成長し続けるグループになった。

キム・チャンファンとクロンの関係は、「プロデューサーとアーティストが長期的なビジョンを共有して音楽を作る」という形の先例でもある。
後のK-POPにおける「プロデューサー主導のグループ作り」は、このような1990年代の成功例を積み上げて形成された。
クロンの音楽的な成功は、メンバー二人の才能だけでなく、プロデューサーの確かな目と長期戦略によっても支えられていた。

2000年代以降、カン・ウォンレは車椅子での生活を続けながら、障害者の社会参加や権利について積極的に発言し続けている。
テレビの企画で様々なアクティビティに挑戦したり、自分の経験を語ることで障害を持つ人々の励みになる活動を続けたりと、「音楽家」という枠を超えた存在として韓国社会に位置づけられている。
「不幸な話」として語られることも多かった事故後の人生を、「それでも前に進む人間の話」として語り直した点で、彼は韓国の公人として異例のキャリアを歩んできた。

ク・ジュニョプとシュー・シーユアンの恋の話は、2022年の結婚時に韓国・台湾双方で「奇跡の純愛」として大きく報じられた。
「20年前の番号に電話をかけた」というエピソードは、映画の台詞のような話だが、現実に起きた。
クロンが1990年代末に台湾に作ったきずなが、二人の人間の人生を20年後につなぎ直した。
音楽が人と人の縁を運ぶ、という話を、これほど具体的に証明した例を、僕はほかに知らない。


マルのひとこと

「꿍따리クンタリ 샤바라シャバラ」を初めて聴いたとき、頭がおかしくなるかと思った。
意味がわからないのに体が動く。
これが音楽の本質なのかもしれない、と思った。
クロンの物語は、二人が背負ってきたものが重すぎて、音楽の話だけでは終わらない。
でも、それもひっくるめて、これが「クロンと僕。
」なんだと思う。
意味のない言葉が一番強かった、という発見。
車椅子でも踊れる、という証明。
20年後の電話番号。
2026年の病院の部屋。
全部が、クロンの歌の続きだ。

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