韓国ヒップホップの歴史を語るとき、どうしても避けて通れない名前がある。
빈지노(Beenzino)。
本名、임성빈。
ラッパーでありながらファッションアイコンでもあり、ソウル大学卒の知性派でもあり、韓国ヒップホップシーンで長きにわたって「本物」と認められ続けた男だ。
彼の音楽を初めて聴いたとき、何かが違うと感じた人は多いはずだ。
言葉の密度が違う。
フロウの自由さが違う。
日本で言えば、みんなが演歌を歌っている横で一人だけジャズを即興演奏しているような、そういう種類の「違い」だ。
2012年のデビューから2023年の『NOWITZKI』まで、約10年以上のキャリアで彼が残してきたものは、単なる「ヒット曲の積み重ね」じゃない。
韓国ヒップホップという文化が成熟していく過程の、ど真ん中にいた男の記録だ。
そしてその記録は、まだ更新中だ。
目次
1. プロフィール
2. 主要ディスコグラフィー
3. Jazzyfact時代 – ルーツを知らずして語れない
4. Illionaire Recordsとの出会い – 最強トリオの誕生
5. 24:26とUp All Night – 「ダリ、ヴァン、ピカソ」が変えたもの
6. アルバム『12』- 成熟という名の到達点
7. 兵役と沈黙の時間
8. 『NOWITZKI』- 7年越しの答え
9. ファッションアイコンとしてのBeenzino
10. マルのひとこと
プロフィール
本名:임성빈 (Lim Sung-bin)
生年月日:1987年9月12日
出身:韓国・ソウル
学歴:ソウル大学美術大学卒業
所属:Illionaire Records (2011年〜2020年、レーベル解散後はソロ活動)
ジャンル:K-HipHop / Alternative Rap
活動期間:2008年〜現在
主要ディスコグラフィー
| 年 | タイトル | 種別 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 2012 | 24:26 | EP | ソロデビュー作。 「Aqua Man」収録 |
| 2014 | Up All Night | EP | 「Dali, Van, Picasso」収録。 代表曲 |
| 2016 | 12 | アルバム | 初フルアルバム。 「We Are Going To」収録 |
| 2023 | NOWITZKI | アルバム | 7年ぶり新作。 KMA Album of Year受賞 |
Jazzyfact時代 – ルーツを知らずして語れない
2008年。
Beenzinoはまだソウル大学の学生だった。
美術大学でアートを学びながら、同時にヒップホップに没頭していた彼は、Shimmy Twiceというラッパーとともに재즈팩트(Jazzyfact)というデュオを結成した。
Jazzyfactの音楽は、名前の通りジャズの影響が色濃かった。
ビートの隙間を縫うようなフロウ、知的な言葉の選び方、そしてどこかアングラ感が漂う質感。
当時の韓国ヒップホップシーンで「こういうものが聴きたかった」と思った人たちが確かにいた。
声はそこまで大きくなかったが、根は確実に張られていた。
Jazzyfactとしての活動期間は短かったが、この時期にBeenzinoが身につけたものは大きい。
ヒップホップという表現形式の中で、ジャズのような即興性や音の余白を意識する感覚。
これは彼のソロキャリアを通じて、ずっと根っこにあり続けることになる。
学校でアートを学び、夜はヒップホップをやる。
この二重生活が、Beenzinoというアーティストの原型を作った。
日本で言えば、90年代の下北沢あたりで地道にライブを重ねていたアンダーグラウンドバンドが、後に日本のロックシーンを作ったみたいな話だ。
いきなり武道館には立てないが、その積み重ねがなければ武道館もなかった、という種類の時間。
Beenzinoにとって、Jazzyfactはそういう時代だった。
Illionaire Recordsとの出会い – 最強トリオの誕生
2011年、The QuiettとDOK2が立ち上げたレーベル、Illionaire Recordsにベenzinoが加入する。
この組み合わせは、後から考えれば必然だったと思う。
でも当時のシーンから見れば、それは「とんでもない奴らが集まった」という感じだったはずだ。
The Quiettは韓国ヒップホップの礎を作ったトラックメイカー兼ラッパー。
DOK2は圧倒的なバイブスと自己プロデュース力を持つ野心家。
そこにBeenzinoという、アートの素養を持つ知性と遊び心の塊が加わった。
三者三様でありながら、共通して「本物であること」にこだわっていた。
Illionaire Recordsという名前は「Illionaire = Illicit + Millionaire」の造語だという。
お金持ちではあるが、既存の枠組みに収まらない、という宣言だ。
正規のルートではなく、自分たちで作ったルートで成り上がる、という意志。
この名前が示す哲学は、Beenzinoのキャリアにも通底している。
ソウル大卒でエリートのルートを歩けたはずの男が、ヒップホップを選んだ。
その選択自体が、Illionaireの精神そのものだったわけだ。
Illionaire Recordsは2011年の設立から2020年の解散まで約9年間、韓国ヒップホップシーンの中心的存在であり続けた。
そのレーベルの顔として、Beenzinoは2012年にソロデビューを果たす。
シングル「I’ll Be Back」とEP『24:26』。
「24歳から26歳」を意味するタイトルに込められた、若者の瑞々しさと焦りと野心。
これが、ソロBeenzinoの始まりだった。
24:26とUp All Night – 「ダリ、ヴァン、ピカソ」が変えたもの
2012年のEP『24:26』は、のちの「Beenzinoらしさ」の原型がすべて詰まっていた。
「Aqua Man」のような曲で見せる、水の中を漂うような浮遊感のあるフロウ。
難しい言葉を使わずに深いことを言えてしまう言語センス。
聴く者に「なんかわからないけどかっこいい」と思わせる独特の空気感。
このEPのタイトル「24:26」は、Beenzinoが24歳から26歳だった頃、つまりJazzyfact時代から初期ソロ時代までの時間を指す。
青春の一区切りを音楽で封じ込めたような作品だ。
「あの頃の俺はこうだった」という証言書。
後から振り返ったとき、この時期にすでに彼の核心はあったと思う。
そして2014年のEP『Up All Night』で、彼は一気にメインストリームに躍り出た。
きっかけは「달리, 반, 피카소(Dali, Van, Picasso)」という曲だ。
MVなしで配信されたにもかかわらず、リリース直後に約60万ダウンロードを記録した。
数字だけ見るとすごいが、それ以上に驚くのは「なぜこの曲が刺さったのか」という部分だ。
Beenzino自身が語っているように、この曲はサルバドール・ダリの自伝を持ち歩きながら、スタジオにあったゴッホの絵に触発されて生まれた。
ダリ、ヴァン・ゴッホ、ピカソ。
三人の天才芸術家の名前を並べながら、「俺もそういう存在でありたい」という表明を、全くドヤらずにやってのける。
ソウル大で美術を学んだ彼にとって、この引用は借り物じゃなかった。
骨の髄から出てきた言葉だったから、聴く人間の骨に刺さった。
「Dali, Van, Picasso」がここまで広まったのは、この曲が「知ってる人だけわかる」マニアック系ではなかったからだと思う。
ダリもゴッホもピカソも、みんな知っている。
でも「ヒップホップとアート」という組み合わせに新鮮さを感じた人も多かった。
難しいことを言わずに、すっと心の中に入ってくる。
これが、Beenzinoの言葉のうまさだ。
日本のリスナーに例えるなら、岡村靖幸が「俺は黒人だ」と言ったとき、それが冗談でも比喩でもなく本気の魂の叫びとして聞こえた、あの感じに似ているかもしれない。
ちょっとわかりにくい例えで申し訳ない。
でも「本当にそう思っているやつの言葉は届く」ということだ。
アルバム『12』- 成熟という名の到達点
2016年5月、Beenzinoは初のフルアルバム『12』をリリースした。
「12」という数字は、時計の12時を意味する。
頂点、完成、あるいは次の一周の始まり。
そういう意味が重ねられたタイトルだ。
このアルバムには「Dali, Van, Picasso」も再収録されつつ、「We Are Going To」や「Break」など新曲も多数収録された。
音楽的な幅が広がり、単なる「ヒップホップアルバム」という枠を超えた作品になっている。
ポップとの境界線を自在に行き来しながら、しかしヒップホップとしての芯は一切ブレない。
このバランス感覚は、ソウル大で培った美的センスと、Illionareで磨いたストリートの感覚が融合した結果だろうと思う。
アルバムのトーンは全体的に落ち着いていて、20代後半を生きる男の繊細さと強がりが同居している。
「We Are Going To」は特に印象的な曲で、未来への不安と期待が入り混じったような雰囲気がある。
「どこかへ向かっている」という感覚。
でもどこへ向かっているのかは、まだわからない。
その宙吊りの状態が、正直に音になっている。
『12』は批評的にも商業的にも成功を収め、Beenzinoの名前は韓国ヒップホップを知らない層にも届くようになった。
K-POPのファン層と、ヒップホップのコアリスナーと、ファッションに敏感な若者たちを同時に引きつけられる、そういう稀有なポジションを確立したアルバムだった。
このアルバムをリリースした2016年、Beenzinoは29歳だった。
29歳。
いろんな意味で微妙な年齢だ。
20代最後の年に、これだけのアルバムを出せたことは、後のキャリアを考えると大きな意味を持っていたと思う。
ここで一度、自分の音楽的な集大成を出し切った。
だから次のステップに進めた。
兵役と沈黙の時間
韓国の男性アーティストには、避けられない壁がある。
兵役だ。
2017年、Beenzinoは軍に入隊した。
約2年間、彼は音楽シーンから姿を消した。
この期間、ファンにとっては長い沈黙だった。
SNSで近況は伝わってくるが、新曲はない。
ライブもない。
当時交際中だったモデルのStefanie Michovaとの関係も、遠距離のような形で続いていたという。
韓国語と英語で繋がりながら、離れていた時間。
その経験が後の音楽に影響を与えたことは、想像に難くない。
2019年初頭に除隊し、Beenzinoは社会に帰ってきた。
しかし「帰ってきた」からといって、すぐに音楽が出るわけじゃない。
2年間の空白を埋めるには、それなりの時間が必要だ。
というか、埋めようとするから失敗するのかもしれない。
Beenzinoはその後も慌てずに、自分のペースで次の作品を準備し続けた。
除隊後しばらく、Beenzinoはスポットでの客演やシングルリリースをしながらも、フルアルバムは出さなかった。
焦らなかった、というより焦れなかったのかもしれない。
「出せるときに出す」ではなく「出すべきものができたら出す」という姿勢は、一貫していた。
この「慌てない」という姿勢が、彼の音楽の質を担保してきた理由の一つだと思う。
日本で言えば、宇多田ヒカルが5年間休業してから帰ってきたときの、あの感じに近いかもしれない。
帰ってくるまでに時間がかかればかかるほど、帰ってきたときの期待値が上がる。
でも、期待に応えようとして作ったものは大抵失敗する。
期待を忘れて自分のために作ったものが、一番深く届く。
Beenzinoがそれを体現するのは、2023年のことだ。
『NOWITZKI』- 7年越しの答え
2023年7月3日。
Beenzinoが7年ぶりのフルアルバム『NOWITZKI』をリリースした。
タイトルはNBAレジェンド、ダーク・ノビツキーへのオマージュだ。
ドイツ出身でありながらNBAを制したノビツキーは、「異端者が本場を制した」ことの象徴だった。
Beenzinoが込めた意味は、想像するまでもない。
ソウル大の美術生がヒップホップをやり、アンダーグラウンドからメインストリームへ上り詰め、7年の沈黙を経て帰ってきた。
「俺もノビツキーだ」という宣言だ。
18曲入りのこのアルバムは、リリース翌日にMelonで100万ストリーム突破。
韓国のヒップホップアルバムとしては異例の5万枚以上の販売を記録した。
批評家サイトRhythmerの2023年韓国ヒップホップベスト10では1位を獲得。
2024年の第21回韓国大衆音楽賞ではアルバム・オブ・ザ・イヤーとベスト・ラップ&ヒップホップ・アルバムを受賞。
さらに韓国ヒップホップアワード (KHA)でもアーティスト・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
アルバムの内容は、これまでのBeenzinoのどの作品とも異なる。
日常の視点が増えた。
より私的で、より素直で、でもより深い。
「かっこよさ」を追い求めることをやめた先に辿り着いた、本当の意味でのかっこよさ、とでも言えばいいか。
7年という時間が、Beenzinoをひとまわり大きくしていた。
18曲という収録曲数も、このアルバムの特徴の一つだ。
最近のストリーミング時代のアルバムは曲数を絞る傾向があるが、Beenzinoはあえてたっぷり詰め込んだ。
「これが俺の7年間だ」という見せ方だと思う。
特典CDにはさらに「Morning Page」と「Train」という2曲が追加されており、合計20曲という大作になっている。
一枚でBeenzinoの今を丸ごと受け取れる。
そういうアルバムだ。
ファッションアイコンとしてのBeenzino
音楽の話ばかりしてきたが、Beenzinoを語るうえでファッションは外せない。
というより、Beenzinoの場合は音楽とファッションが切り離せない。
彼の美意識は一個の世界観として存在していて、音楽もファッションも、その世界観を表現する手段の一つに過ぎないからだ。
ソウル大学の美術大学出身というバックグラウンドは、彼の視覚的なセンスに直結している。
どの写真を見ても、全体のバランスを意識して着ているのがわかる。
Saint LaurentやLouis Vuittonといったハイブランドを着こなしながら、決してブランドに着られていない。
自分の体と顔と雰囲気でブランドを従えている、そういう種類の人間だ。
GQ KoreaやMarie Claire Koreaに繰り返し登場し、韓国のファッション誌では「ヒップホップラッパー」としてではなく「スタイルアイコン」として扱われることも多い。
K-POPアイドルのビジュアルとも違う、もっと生活の中から滲み出るような色気がある。
日本で言えば、長瀬智也のような「生き方そのものがスタイリッシュな人間」に近いかもしれない。
Rafflesをはじめとするブランドとのコラボレーションも積極的に行ってきた彼は、「ラッパーがファッションをやる」のではなく「ファッションに真剣に向き合うアーティスト」として業界内でも一目置かれている。
この点においても、Beenzinoはジャンルを超えた存在だ。
ファッションへのこだわりは、見た目だけの話ではない。
「どう見られるか」より「どう在るか」を優先している人間の美意識は、音楽にも写真にも服の選び方にも、同じように滲み出てくる。
Beenzinoの場合、それが特に一致している。
「ラッパー」「美術生」「ファッションアイコン」。
どの切り口で見ても同じ人間に見える。
それが本物の表現者の証拠だと思う。
Beenzinoの音楽を深く知るために
Beenzinoの音楽の特徴を一言で言うなら、「遊び場の広さ」だと思う。
ラップの基礎体力はもちろんあるが、彼はその上で自由に遊んでいる。
フロウを崩すことを恐れない。
メロディーを入れることを恐れない。
英語と韓国語を混ぜることを恐れない。
ジャズっぽくすることも、ポップにすることも、必要に応じてやってのける。
でもどんなに遊んでも、Beenzinoっぽさが消えない。
これは一種の魔法だ。
多くのアーティストは、実験をすると「これは誰の音楽だろう?」となってしまう。
でもBeenzinoは何をやっても「あ、Beenzinoだ」になる。
このアイデンティティの強度は、他のアーティストにはなかなか真似できない。
その強度の源泉は、おそらく「言葉の使い方」にある。
Beenzinoの歌詞は、ヒップホップ的な誇示や対立ではなく、自分の内側を素直に言語化することに長けている。
恥ずかしいことも、不安なことも、照れくさいことも、全部正直に言える。
でも正直に言いながら、ダサくならない。
これが一番難しいことで、これができる人間はそんなに多くない。
初めて聴くなら、まず「Dali, Van, Picasso」から入るのがわかりやすい。
そこから『24:26』に戻って原点を感じ、『12』で成熟を味わい、最後に『NOWITZKI』で現在地を確認する。
この順番で聴けば、一人のアーティストが10年以上かけて歩んできた道が見えてくる。
その道は、決してまっすぐじゃないが、常に上り坂だった。
Illionaire Recordsは2020年に解散したが、Beenzinoの音楽は続いている。
レーベルという器は終わっても、その中で生まれた音楽は死なない。
むしろ、器がなくなったことで、Beenzinoという個人の輪郭がより鮮明になったとも言える。
彼はIllionaireのBeenzinoである前に、Beenzinoというアーティスト自身だった。
韓国ヒップホップというジャンルの中で、Jay Parkがスーパープロデューサーとしての道を歩み、DOK2がビジネスマンとしての顔を持ち始めた頃、Beenzinoはひたすら「一人のアーティスト」であることに集中し続けた。
その選択が、2023年の『NOWITZKI』という結実につながったのだと思う。
これだけ長くやっていて、まだ前作を超える作品を出せている。
それは普通のことじゃない。
多くのアーティストは、若い頃の輝きを超えられずに終わる。
でもBeenzinoは、年を重ねるごとに音楽が深くなっている。
これは、単純に「うまくなった」だけじゃなく、「生きた経験が音楽に乗り始めた」ということだと思う。
美術学生が、ラッパーが、ファッションアイコンが、兵役を経て、沈黙を経て、30代の男になった。
その全部が音楽に入っている。
マルのひとこと
最初にBeenzinoを知ったのは、「Dali, Van, Picasso」ではなかった。
Jazzyfact時代の古い曲を、誰かに「これ聴いてみ」と送られたのが最初だった。
「なんか大学生っぽいな」と思った記憶がある。
いい意味でも、少し複雑な意味でも。
その後、気づいたら「Dali, Van, Picasso」を一日に何度もリピートしていた。
「ソウル大の美術生がこれを作った」と知ったのは、しばらく経ってからだ。
知った瞬間、全部合点がいった。
あの曲の「アートへの愛情は借り物じゃない」という感じの正体が、わかった気がした。
2023年の『NOWITZKI』は、正直リリース直後には「7年待ってこれか」とは思わなかった。
むしろ聴けば聴くほど好きになっていった。
こういう音楽は、時間をかけて体に馴染んでいく。
1回目より2回目、2回目より3回目が好きになる。
そういうアルバムが、本当に長く聴き続けられるものだと、最近わかってきた。
うりぬん、Beenzinoの音楽をもっとゆっくり、じっくり聴いていきたい。



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