2017年2月。
まだKid Milliの名前を知っている人間が、韓国でもほとんどいなかった頃の話だ。
Indigo Musicからひっそりリリースされた全6曲のEP、키드밀리の『Maiden Voyage』。
タイトルを日本語に訳すなら「初航海」。
17分そこそこの作品に、19歳のラッパーが持っていたすべてが、詰め込まれている。
Show Me The Money出演で全国区になる前、honmonoで「こいつは本物だ」と言われる前、Kid Milliには、この一枚がある。
航海の始まりを、一緒に聴いてみてほしい。
目次
- 作品概要
- Kid Milliという人
- 2017年2月という時期
- 各曲紹介
- 日本カルチャーという窓
- SwingsとHash Swan、二つの客演
- 音楽の作り方について
- この先にあるもの
- マルのひとこと
作品概要
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | Maiden Voyage |
| アーティスト | Kid Milli (키드밀리) |
| リリース日 | 2017年2月23日 |
| 形態 | EP (全6曲) |
| 収録時間 | 約17分 |
| ジャンル | ヒップホップ |
| 所属レーベル | Indigo Music |
| 客演 | Swings / Hash Swan |
収録曲
| # | 曲名 | 備考 |
|---|---|---|
| 01 | Family business | feat. Swings |
| 02 | ccccall | |
| 03 | MARUHAN | |
| 04 | Haneda | |
| 05 | End clothing | feat. Hash Swan |
| 06 | Levitate |
Kid Milliという人
Kid Milliは韓国・ソウル出身のラッパーで、Indigo Musicというレーベルに所属している。
Indigo Musicといえば、韓国ヒップホップのアンダーグラウンドを長年支えてきたレーベルのひとつだ。
商業的な方向へ媚びることなく、アーティストの個性を大切にするカルチャーがある。
Kid Milliという名前が初めて世に出たのは、このEPの少し前のことだ。
インターネットの隅で音楽をアップロードし、コアなヒップホップリスナーの間でじわじわと話題になっていた。
「なんか変なやつがいる」、そういう評判の立ち方をするタイプのラッパーだった。
彼の音楽を特徴づけるのは、そのフロウの多様さだ。
一曲の中でスタイルをがらりと変えてみたり、リズムの裏をわざと踏んでみたり、普通のラッパーなら絶対に選ばないようなアプローチをさらっとやってのける。
技術的な意味での「うまさ」ではなく、「このひとにしか出せない音がある」という意味での圧倒的な個性。
それが、Kid Milliの核心にある。
日本語との親和性も、彼の特徴として早い段階から際立っていた。
韓国語の歌詞の中に日本語のフレーズを挟み込んだり、日本のカルチャーへの偏愛を隠さずに歌ったりする。
後で詳しく触れるが、このEPにもその傾向がはっきりと現れている。
2017年2月という時期
2017年の韓国ヒップホップシーンを少し振り返ってみよう。
「Show Me The Money」シリーズは6シーズンが終わったところで、すでにヒップホップは韓国の主流カルチャーになりつつあった。
アンダーグラウンドから這い上がってきたラッパーたちが、テレビの舞台で戦い、視聴者の票を集めて一夜にして全国区になる。
そういう時代の空気があった。
しかし『Maiden Voyage』は、そういう流れとは無関係に作られている。
6曲を通して聴くと、「売れるために作った」という気配が一切ない。
むしろ「自分の頭の中にある音楽を、そのまま外に出した」という感じだ。
17分という短さも含めて、このEPはひとつの宣言のように聴こえる。
「俺はここにいる」という、静かで、しかし揺るぎない宣言。
この年の8月、Kid Milliは「honmono」という曲をリリースする。
日本語のタイトルを持つその曲は、彼の名前をシーン全体に知らしめるきっかけになった。
『Maiden Voyage』は、その半年前の話だ。
のちの「honmono」を聴いてから、この初航海に戻ってくると、また見え方が変わる。
各曲紹介
01. Family business feat. Swings
EPのオープナーにして、このEP全体のトーンを決める一曲。
「家族のビジネス」という言葉が持つ、内輪の連帯と外への宣戦布告を同時に表すような緊張感がある。
스윙스をフィーチャーしたこの曲は、「ファミリー」という言葉を中心に据えながら、自分たちが何者であるかをはっきりと打ち出す。
Swingsというのは、韓国ヒップホップ界でも一際存在感を放つラッパーだ。
攻撃的なフロウと、容赦なく本音をぶつけるリリックスタイルで知られる。
そのSwingsを一曲目に持ってきたことは、Kid Milliなりの宣言とも読める。
「俺は、このシーンのど真ん中に立つ」という意思表示。
Swingsのバースは、いつも通り圧がある。
しかし注目すべきはKid Milliのバースで、若さゆえの荒さと、確かな技術が混在している。
全部を精密に仕上げようとせず、勢いのままに突っ込んでいく感覚。
それがこの曲にリアリティを与えている。
02. ccccall
タイトルの「c」を四つ並べるというセンスが、すでにおかしい。
良い意味で、ひとくせある。
Kid Milliのフロウの自由さが、この曲では最も直接的に味わえる。
サビでメロディアスな歌い方に変化したかと思えば、バースでは言葉を噛み砕くように積み重ねてくる。
一曲の中にスタイルの違う自分を何人も同居させる、そのやり方がKid Milliらしい。
ビートも印象的で、浮遊感のあるシンセとタイトなドラムの組み合わせが、彼の声によく合っている。
曲の中盤でテンポが少し変化するあたり、構成へのこだわりが感じられる。
03. MARUHAN
マルハンといえば、日本最大手のパチンコチェーンだ。
韓国のラッパーが曲のタイトルにマルハンを使う。
普通は選ばない。
しかしKid Milliにとって、日本カルチャーへの言及は自然なことだ。
日本のサブカルチャー、ファッション、言語、そういったものへの愛着が彼の音楽の根底にある。
マルハンというワードを選んだことで、「俺が好きな日本」の解像度がはっきりわかる。
表参道でも渋谷でもなく、マルハン。
その視点の取り方が独特だ。
曲自体はドープなトラックで、言葉をたたきつけるようなフロウが続く。
メッセージよりも音の気持ちよさを優先したような一曲で、ループして聴くと中毒性がある。
04. Haneda
羽田空港。
東京の玄関口であるこの空港を、Kid Milliは一曲に変えた。
旅の始まり、あるいは旅の終わりを感じさせるムードが漂う曲だ。
アルバムタイトルの「初航海」と重なるように、この曲では飛び立つことへの期待と不安が同居している。
具体的な場所の名前をタイトルに使うことで、抽象的な感情を地に足のついたものにする。
Kid Milliのワードセンスの中に、こういう「場所を使う」技法が早い段階からあった。
フロウはこの曲でも変化に富んでいて、メロウな流れと鋭い切り込みを交互に見せる。
「Haneda」という曲名を聴いてから想像するビートと、実際に流れてくるビートが少し違っていて、その意外性が気持ちいい。
05. End clothing feat. Hash Swan
二人目のゲスト、해쉬스완ことHash Swanが登場する。
Hash Swanは、Kid Milliとはスタイルの違うラッパーだ。
洗練されたフロウと、言葉の選び方にセンスがある。
Kid Milliのざらついた勢いと、Hash Swanの整ったラップが組み合わさることで、曲に立体感が生まれる。
「End clothing」というタイトルも、いわゆるストリートファッションブランドへの言及だろう。
音楽とファッションを結びつけて語る感覚も、Kid Milliの世界観の一部だ。
着るものへのこだわりと、聴く音楽へのこだわりは、彼の中でつながっている。
この曲のビートは、EPの中でも特にタイトだ。
ドラムの粒が立っていて、二人のラップが映える。
聴いていて体が動く感覚があるのはここだけかもしれない。
06. Levitate
エンディングを飾る「Levitate」は、浮かび上がるという意味を持つ。
初航海の最後に、宙へと浮き上がるイメージで締めくくる。
曲全体を漂うメロウな空気が、このEPの余韻を作っている。
全力で叫んで終わるのではなく、静かに高度を上げて消えていく。
その終わり方が、Kid Milliという人の美学を表しているように思う。
17分のEPを聴き終えると、不思議な余韻が残る。
もっと聴きたいのに、これ以上は要らないとも感じる。
その絶妙な切り上げ方が、「Levitate」という曲に集約されている。
日本カルチャーという窓
このEPを語るとき、日本への視線は外せない。
「MARUHAN」と「Haneda」という二つのトラックタイトルは、Kid Milliが日本のカルチャーに対して持つ愛着の深さを示している。
韓国のアーティストが日本への親近感を音楽で表現することは、決して珍しくない。
しかしKid Milliのそれは、観光的な表面をなぞるものではなく、もっと内側に踏み込んだものだ。
マルハンというパチンコチェーンを選んだことは、その典型だ。
日本の「華やかな部分」ではなく、ある種の退廃や日常のざらつきに引き寄せられている。
パチンコ店の喧騒、蛍光灯の光、玉を弾く音。
そういったものに美学を見出す視点は、ヒップホップという文化が持つ「見落とされてきた場所を歌う」精神とも響き合う。
羽田という空港の名前も同じだ。
成田ではなく羽田を選ぶ。
どちらが「正解」ということではないが、羽田が持つ「東京の内側に近い」感覚、都市の生活に溶け込んだ空港のイメージが、Kid Milliの音楽には似合う。
この日本への偏愛は、2017年8月のシングル「honmono」でさらに大きく花開く。
「本物」という日本語をタイトルにしたその曲は、単なる日本語の引用ではなく、Kid Milliが長年抱えてきた「本物である」ということへのこだわりを、日本語という形で結晶化したものだった。
『Maiden Voyage』は、その伏線の宝庫だ。
SwingsとHash Swan、二つの客演
EP全6曲のうち、二曲に客演がいる。
스윙스と해쉬스완。
この二人の選択は、Kid Milliがどんな場所に自分を置きたかったかを教えてくれる。
Swingsは韓国ヒップホップ界における重鎮で、圧倒的な存在感を持つ。
彼がJust MusicというレーベルからAOMGへと活躍の場を広げていった時期とも重なる。
そんなSwingsをEPの一曲目に迎えることは、大きな賭けであり、同時に明確な意思表示だった。
「俺は本気でこのシーンにいる」という表明。
一方のHash Swanは、Kid Milliと世代の近いラッパーで、Indigo Music周辺のシーンで存在感を放っていた。
同じ景色を見ながら育ってきた同志を呼ぶような選択で、こちらは親しみと信頼が滲んでいる。
大御所と、仲間と。
そのバランスの取り方に、Kid Milliの人間関係の作り方が見える気がする。
尊敬すべき人は正面から尊敬し、共に歩む仲間には同じ目線で接する。
音楽の作り方と、人との関係の作り方は、どこかで重なっている。
音楽の作り方について
Kid Milliの音楽を技術的な面から見ると、フロウの多様性が際立つ。
多くのラッパーは、自分の「型」を持ち、その型の中で磨いていく。
それは決して悪いことではなく、むしろ一貫したスタイルは強さになる。
しかしKid Milliは、一曲の中でも、あるいは一バースの中でも、フロウをすり替えてくる。
聴いている側が「ここはこういくだろう」と予測したところを外してくる。
その「外し方」が、安易なサプライズではなく、ちゃんとグルーヴとして成立しているのが恐ろしい。
リズムをわざと裏で踏んでいるように聴こえるのに、ビートに乗っている。
その矛盾を体で解決できるラッパーは、そんなに多くない。
声質も独特で、少しハスキーがかった、年齢よりも少し老けた声だ。
2017年当時はまだ10代後半だったはずなのに、この声はどこからきているのかと思う。
「初航海」というタイトルとは少し矛盾するくらいに、声に貫禄がある。
プロダクションの面でも、このEPは凝っている。
各トラックがバラバラなようでいて、全体を通すとひとつのトーンでまとまっている。
旅をしながら、どこにいても自分の世界から出ない感覚。
それがプロダクションのレベルで実現されている。
この先にあるもの
『Maiden Voyage』のリリースから半年後、Kid Milliは「honmono」を発表する。
「本物」という日本語タイトルを持つそのシングルは、彼の名前をシーン全体に広め、韓国ヒップホップのリスナーたちの間で「Kid Milliはただ者じゃない」という評価を確立させた。
その後、Show Me The Moneyへの出演を経て、Kid Milliは文字通り全国区になる。
テレビの向こうから彼の名前を初めて聞いた人たちは、その時点から遡って音楽を聴き始める。
そして「honmono」にたどり着き、さらに遡ると『Maiden Voyage』に出会う。
その順番で聴く人にとって、このEPは「すごいラッパーの若い頃」という文脈で聴かれることになる。
しかし本当は、逆の順番で聴いてほしい。
先にこのEPを聴いてから、「honmono」へ、そして全国区のKid Milliへ。
そうすると、成長の軌跡ではなく、最初からそこにあったものの輪郭が見えてくる。
「Maiden Voyage」という言葉は、初めての航海を意味する。
しかしKid Milliの音楽を聴いていると、これが本当に「初めて」なのかと疑いたくなる。
19歳がこんな音楽を作れるのかという驚きが、この作品にはある。
もちろん荒削りな部分もある。
後の作品と比べれば、完成度の違いは明らかだ。
しかしその荒削りさこそが、この作品の魅力の一部でもある。
磨かれる前の石の、固さと鋭さ。
それが『Maiden Voyage』にある。
韓国ヒップホップを長く聴いてきた人間なら、こういうデビュー作が後からどれほど輝いて見えるかを知っている。
Kid Milliがこれほどのラッパーになった今、2017年2月のこの作品を聴く意味は、当時よりもずっと大きい。
初航海の地図は、もう持っている。
あとは実際に乗り込むだけだ。
Indigo Musicというレーベルの意味
Kid Milliが所属するIndigo Musicは、韓国ヒップホップのアンダーグラウンドシーンを語るうえで欠かせないレーベルだ。
商業的な成功よりも、アーティストの個性と音楽的な誠実さを優先するという姿勢が、長年にわたって評価されてきた。
Kid Milliがこのレーベルから『Maiden Voyage』をリリースしたことには、大きな意味がある。
「まず自分の音楽を作れ、それをちゃんと届ける」という環境が整っていたからこそ、彼はこれほど自由な作品を19歳で世に出すことができた。
Indigo Musicにはほかにも個性的なアーティストが揃っており、彼らが互いに影響を与え合いながら音楽を作っていく空気感がある。
Hash Swanが客演として参加しているのも、そういったシーンの近さゆえだろう。
同じ屋根の下にいる仲間に声をかけるような、自然な流れで生まれた客演だと思う。
日本でいえば、特定のレーベルのコンピレーションを追いかけることで、そのシーンの流れが見えてくることがある。
Indigo Musicの動向を追いかけると、Kid Milliという個人を超えた、韓国アンダーグラウンドヒップホップのひとつの潮流が見えてくる。
そういう意味でも、このEPはレーベルの文脈の中で聴く価値がある一枚だ。
17分という長さについて
このEPの収録時間は約17分だ。
フルアルバムに比べれば短いが、短編映画のように完結している。
最近のヒップホップシーンでは、ストリーミング映えを意識してトラックを詰め込む傾向がある。
視聴数を稼ぐために曲数を増やし、再生時間を伸ばす。
そういう計算をどこかでしているアーティストが多い中で、『Maiden Voyage』の6曲17分は潔い。
入れたいものだけ入れて、余分なものは削る。
それだけのことだが、やれないアーティストは多い。
自分の「好き」と「うまい」だけで構成されたEPは、聴く側にとっても無駄がなくて心地よい。
個人的に、こういうコンパクトなEPが好きだ。
通勤の電車の中でちょうど聴き終えるくらいの長さ、一杯のコーヒーが冷める前に終わる長さ。
日常の中に滑り込んで、なにかを置いていく作品の作り方として、17分は正解のひとつだと思う。
このEPを聴く前に知っておきたいこと
『Maiden Voyage』は、いわゆる「入門作」ではない。
Kid Milliをまったく知らない人がいきなりここから入ると、少し戸惑うかもしれない。
メロディアスでキャッチーな曲が並んでいるわけではないし、誰もが口ずさめるフックがあるわけでもない。
良い意味で、万人向けではない。
ヒップホップリスナーとして一定の耳を持っている人が聴いたとき、その真価が伝わる作品だ。
逆に言えば、韓国ヒップホップを少しでも聴いてきた人には、強くすすめられる。
特にIndigo Music周辺のシーンや、アンダーグラウンドのラッパーたちへの興味がある人なら、発見がある一枚だ。
また、「honmono」を先に聴いて気に入った人が、遡って聴くのにも向いている。
あの曲に込められた感覚の原型が、ここにある。
「honmono」が好きならば、『Maiden Voyage』は必聴だ。
あの曲がどこから生まれてきたのか、そのルーツを掘り下げたくなったとき、この初航海は答えを持っている。
マルのひとこと
初めてこのEPを聴いたとき、正直「MARUHAN」というタイトルで笑った。
韓国のラッパーがマルハン。
なんでやねん、と思いつつ再生ボタンを押したら、気づいたらそのまま最後まで聴いていた。
日本のカルチャーへの愛着を、こういう角度から持ってくるひとが韓国にいたんだ、という発見が嬉しかった。
パチンコ屋の看板を曲のタイトルに使える胆力と、それでもちゃんと音楽として成立させる技術と。
その両方を同時に持っているラッパーが、2017年の韓国アンダーグラウンドにいた。
そのことを、このEPは証明している。
僕がK-HIPHOPを聴き続けている理由のひとつが、こういう瞬間に出会えることだと思う。



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