▶ アーティストページ:Epik High
2012年、에픽하이は7枚目のアルバム「99」をリリースした。
YGエンターテインメントへの移籍後初のフルアルバムであり、K-POPが世界規模の産業へと変貌しつつあった時代に、タブロとミスラ・ジンとDJ TUKUYOは「99%の人々に向けた音楽」というコンセプトを掲げて臨んだ。
そのタイトル「99」には、1%のエリートや特権階級ではなく、日常を生きる大多数の人間に届けたいという意志が込められている。
このアルバムが生まれる前、タブロは人生で最も過酷な時期を過ごしていた。
2010年から2011年にかけて、「タジンヨ事件(타진요)」と呼ばれる学歴詐称疑惑キャンペーンがインターネット上を席巻した。
根拠のない中傷が何万人もの人々によって拡散され、タブロはスタンフォード大学の卒業証明書まで提出しても信じてもらえないという状況に追い詰められた。
精神的に崩壊した後の再生の記録として、「99」は特別な意味を持つアルバムだ。
YGという大きなレーベルに移籍したことで、制作環境と予算が大幅に変わった。
しかしエピカイは、大手レーベルの恩恵を受けながらも、インディペンデント精神を手放さなかった。
Park Bom、Gaeko(Dynamic Duo)など豪華なフィーチャリング陣を迎えながら、アルバムのメッセージは常に「傷ついた人間が傷ついたまま歌う」という誠実さを核に持っていた。
それが「99」というアルバムを、単なる成功体験の記録にとどまらせなかった理由だ。
【目次】
1. アルバム概要
2. リリース背景とタジンヨ事件
3. 収録曲解説
4. アルバムの意義と評価
5. マルのひとこと
アルバム概要
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| アーティスト | Epik High (エピカイ) |
| アルバムタイトル | 99 |
| リリース年 | 2012年 |
| レーベル | YGエンターテインメント |
| アルバム番号 | 7집 (7枚目) |
| 収録曲数 | 10曲 |
| 主なフィーチャリング | Park Bom、Gaeko、Nell |
| プロデュース | Tablo、Mithra Jin、DJ Tukuyo |
リリース背景とタジンヨ事件
「99」を語る上で、タジンヨ事件を避けることはできない。
「타블로에게 진실을 요구한다(タブロに真実を求める)」の略称で知られるこのオンラインキャンペーンは、2010年に始まった。
タブロがスタンフォード大学で3年半で学士・修士号を取得したという経歴を「嘘だ」とする疑惑が持ち上がり、それがインターネット上で急速に広がったのだ。
最盛期には数万人の「信者」がタブロを中傷し、彼の家族や周囲の人間にまで嫌がらせが及んだ。
タブロは卒業証書、成績証明書、大学側の声明など、あらゆる証拠を提出した。
しかしインターネット上の集団は「証書も偽造だ」と言い続けた。
警察の捜査が入り、最終的にはタジンヨの主要人物が有罪判決を受けたが、その頃にはタブロはすでに精神的に大きなダメージを負っていた。
この事件は後にMBCのドキュメンタリー「타블로의 진실게임(タブロの真実ゲーム)」として映像化され、韓国社会における「魔女狩り文化」の問題を浮き彫りにする契機となった。
この経験がなければ「99」というアルバムは存在しなかっただろう。
傷ついた人間が、傷ついたまま世界に向けてマイクを向ける。
「99%の人間に届く音楽」というコンセプトは、そういう痛みの中から生まれた誠実さだ。
YGへの移籍という新しい出発点を得ながら、タブロは過去の傷跡を直視することから始めた。
そしてその傷跡を、音楽という形で昇華したのが「99」だった。
YGエンターテインメントとの契約は、エピカイにとって大きな転換点だった。
それまでの独立系レーベルとは異なり、BigBangやSE7ENを擁する大手に所属することで、流通・プロモーション面での恩恵を受けることができた。
一方で「商業的になりすぎた」という批判を受けるリスクも伴った。
しかしタブロはインタビューで「YGが俺たちのやりたいことを全部やらせてくれる。
一切の制限がない」と語っており、創作の自由度は維持されていたことがうかがえる。
「99」というアルバムタイトルの哲学は、当時の社会状況とも深く結びついている。
2011年から2012年にかけて、Occupy Wall Street運動が世界的に注目を集め、「99%対1%」という言説が広まっていた。
経済的格差が拡大する時代に、大多数の人間の側に立つ音楽を作るという宣言は、単なる謙虚さではなく、政治的な意味を持っていた。
エピカイは常に時代の空気を読み取りながら、それを普遍的な人間の物語に変換することができるアーティストだ。
収録曲解説
01 Up feat. Park Bom (パク・ボム)
「明日はきっと良くなる」。
2NE1のパク・ボムを迎えたタイトルトラックは、アルバム全体の方向性を象徴するオープニングとして機能する。
YGエンターテインメント移籍後初のアルバムの幕開けとして、新しい始まりへの期待と励ましを、これ以上ないシンプルな言葉で届ける。
ヒップホップとポップの境界線を軽やかに渡りながら、「上へ向かおう」というメッセージを押しつけがましくなく歌う。
パク・ボムの声はこの曲のために生まれたかのように鮮明に響く。
タブロが「聴く人を次の日へ送り出すための曲を作りたかった」と語ったように、難解な言葉は一切使わない。
ただ明日があるという事実を、最も穏やかな方法で肯定する。
アルバム名「99」が象徴する、99%の人たちへの音楽。
その哲学は、このオープニングトラックに最も直接的に現れている。
プロダクションはYG在籍時期のエピカイにしかできない、洗練された中にも温かさのあるサウンドデザインを採用している。
弦楽器の音色が曲に光を与え、タブロのラップとパク・ボムのメロディが自然に絡み合う。
タジンヨ事件から立ち直ったタブロが、傷跡を隠さず前を向いてみせた最初の宣言として、この曲は深く心に刻まれる。
どんなに落ちても、「Up」という一語が示す方向がある。
それを信じることが、このアルバムの起点だ。
02 Don’t Hate Me
「Don’t Hate Me」というタイトルの率直さが好きだ。
「Everybody hates me, but you love me and I love you」。
世界中から嫌われていても、たった一人に愛されていれば良い。
シンプルな真実が、英語のコーラスで繰り返される。
タジンヨ事件の渦中にいたタブロが、ある意味で最も素直に書いた曲かもしれない。
「嫌わないでくれ」という懇願ではなく、「嫌われてもかまわない、でも君だけは」という選択の宣言として聴こえる。
「99」というアルバムタイトルには「広い聴衆に向けて音楽の意味を届ける」という意志があったというが、この曲はその哲学を最もわかりやすく体現している。
ビートはミニマルで、タブロの声がほぼそのまま届いてくる。
装飾を削ぎ落とした分だけ、言葉の重量が増す。
「嫌われること」への恐怖から解放された人間の声として、この曲は今も古びない。
何万人にバッシングされても、たった一人に愛される事実の方が大きい。
その逆説的な真実を音楽で示すことが、タブロにしかできないことだ。
03 Wrong (사랑한다면サランハンダミョン 해선 안될 말 / 愛しているなら言ってはいけない言葉)
タイトル「사랑한다면 해선 안될 말」が示す通り、愛しているからこそ言ってはいけなかった言葉がある。
言ってしまったあとの、取り返しのつかない後悔を丁寧に解剖する一曲だ。
愛と暴力は紙一重で、最も傷つける言葉は最も信頼している相手から来る。
そのことへの、怒りよりも悲しみに近い告白として届く。
エピカイの恋愛を扱った曲の中でも、特に心理的に精密な一曲だと思う。
言葉を武器として使ってしまうことの罪、それを知った上で愛を続けることの難しさを、詩的に、しかし残酷に描いている。
韓国語の恋愛表現の繊細さが、この曲には存分に活かされている。
「言ってはいけない言葉」を言い続けてしまう人間の業を、エピカイは批判せず、ただその実態を写し取る。
愛の形が時に暴力に近くなることを、誰もが経験している。
最も近い人間に最も傷つけることを言ってしまう。
それは愛がないからではなく、愛があるからこそ起きる逆説だ。
タブロはその逆説に正直に向き合い、言い訳をせずに記録する。
その誠実さが、聴く者の胸を打つ。
05 아까워 / You Don’t Deserve Her feat. Gaeko (ゲコ)
「아까워」。
ダイナミック・デュオのゲコを迎えたこの曲は、相手には過ぎた存在を愛してしまった男の嘆きだ。
彼女への怒りでも羨望でもなく、「この人はもっとふさわしい相手のために生まれてきた」という、切なく、少し自虐的な気持ちが根底にある。
ゲコとタブロの掛け合いが、同じ感情の異なる側面を照らし合わせる。
感情を「아까워」という一語に凝縮するのは韓国語ならではの表現で、「惜しい」でも「もったいない」でも「申し訳ない」でもある、その複合的な感触が翻訳では失われる。
日本語でこれを一言で言い表す言葉がない。
それがこの曲の、そして韓国語詩の魅力でもある。
ゲコはDynamic Duoのメンバーとして、韓国ヒップホップシーンで長年にわたって活動してきたベテランだ。
エピカイとゲコの共演は、世代を共にしてきた者同士の信頼が音に滲み出ている。
片方が言葉に詰まっても、もう片方が続きを語れるような、そういう関係性が曲に深さを与えている。
「あの人には自分は過ぎる」という感情は、誰もが一度は持つものだ。
それをここまで丁寧に語ることができる二人のアーティストが、この曲を作った。
06 비켜 (Get Out the Way)
「비켜」。
遠慮のない一言が、この曲の全てを要約する。
これまでの批判や障害を押しのけ、前へ進む宣言。
自己主張を激しく叫ぶというより、疲れ果てた末にようやく「もう邪魔しないでくれ」と言える人間のリアルな声として届く。
YG移籍後、エピカイは様々な方向からの圧力と期待の中にいた。
タジンヨ事件を乗り越え、新しいレーベルで新しい挑戦をしながら、それでもついてくる「過去の影」への言葉として、この曲は機能する。
短い単語に込められた長い疲弊と、その向こう側の確信。
「ビキョ」という二音節に、タジンヨ事件後のタブロの全てが詰まっているようだ。
曲のプロダクションはこのアルバムの中で最もアグレッシブなビートを採用しており、「邪魔するな」という感情のエネルギーを音で体現している。
ラップのフロウも通常より速く、詰め込むように言葉が出てくる。
積み上げてきた不満と怒りが、ここで一気に放出される。
しかしその後の曲に続くことで、これが終わりではなく通過点に過ぎないことがわかる。
07 악당アクタン (The Bad Guy)
悪役としての自分を引き受けることを選ぶ曲だ。
誰かにとってのヴィランを演じることが、時に誰かを守ることにつながる。
そんな逆説をエピカイ流の語り口で描く。
「악당」というレッテルを貼られた側から見た世界が、静かな怒りと共に語られる。
タジンヨ事件など、理不尽な攻撃を受けてきた経験がこのリリックに厚みを与えている。
悪役を演じることで守られる何かがある。
そのことへの複雑な感情が、シンプルなタイトルの裏に積み重なっている。
「お前が俺を悪役に仕立てたいなら、俺はその役を引き受けよう。
しかしそれは俺が本当に悪役だからじゃない」。
そういうプライドと諦めと笑いが、この曲には混在している。
08 Ghost (Interlude)
42秒のインタールード。
幽霊のように存在しながら、しかし確かにここにいる。
その矛盾を短い時間に閉じ込めたトラックで、アルバムの中間に置かれたこの小さな断片は、何かが終わり、何かが始まる前の空白として機能する。
幽霊とは、消えきれなかった存在だ。
エピカイ自身も、何度も「消えた」と言われながら戻ってきたアーティストだ。
このインタールードはアルバムの構造の中で息継ぎの役割を果たしながら、「Ghost」という言葉がアルバム全体のテーマと密かに共鳴している。
存在することの証明を求め続けたタブロが、ここで短い沈黙を置く。
その沈黙の密度が、この42秒を単なる間奏以上のものにする。
09 Kill This Love
愛を「殺す」という決断の歌。
終わらせなければならないと分かっていながらそれができない人間の苦しさを超えて、ついに手放す瞬間を描く。
タイトルの強さに反して、曲のトーンは意外なほど穏やかだ。
愛を終わらせることは愛の否定ではない。
その認識がこの曲を救っている。
「Kill This Love」は破壊の宣言ではなく、ある種の慈悲として語られる。
激しい感情を激しい言葉で包まずに届けるエピカイのアプローチが光る一曲だ。
愛することをやめることが、愛した人への最後の思いやりになることがある。
その残酷で美しい逆説を、エピカイは静かに歌い上げる。
10 New Beautiful
アルバムの最後を飾る、新しい美しさの発見。
傷つき、傷つけ、それでも見つかる何か。
YG時代の新しい一章の締めくくりとして、未来へ向けた静かな目線を残す。
「99」というアルバムが象徴してきた、99%の人たちのための美しさを最後に提示する。
「New Beautiful」は宣言でも到達でもなく、探し続けることへのコミットメントだ。
今まで美しいと思っていたものとは違う、まだ名前もない何か。
それを求め続けることがエピカイというアーティストの本質だと、アルバムの最後のこの曲が静かに語る。
傷ついた場所から立ち上がり、新しい美しさを見つけようとする人間の、最もシンプルな宣言として終わる。
このクロージングトラックを聴き終えたとき、「99」というアルバムがなぜ存在しなければならなかったかが、ようやく腑に落ちる。
アルバムの意義と評価
「99」はエピカイのキャリアにおいて、明確な転換点を示すアルバムだ。
インディーズ的な精神を持ちながら大手レーベルの環境を活かす、そのバランス感覚がこのアルバムに宿っている。
タジンヨ事件という個人的な傷を、普遍的なテーマ「99%の人たちへの音楽」に昇華するというアルケミーを成し遂げたことで、エピカイはより広いリスナー層に届く声を手に入れた。
韓国ヒップホップシーンにおける「99」の位置付けも重要だ。
2012年当時、韓国のヒップホップは急速に成長しつつあったが、まだメインストリームとの距離があった。
エピカイがYGというK-POPの中枢に移籍し、Park BomやGaekoなどと共演したことは、ヒップホップとK-POPの橋渡しとして機能した。
それは「裏切り」と見るヒップホップファンもいたかもしれないが、エピカイの音楽的誠実さは損なわれなかったと思う。
アルバムのコンセプトである「99」という数字は、Occupy Wall Street運動などで「99%対1%」という言説が広まっていた時代背景とも呼応している。
経済的格差、ネット上のバッシング文化、音楽産業の変化。
それらの時代的文脈の中で生まれた「99」は、2012年という年のスナップショットでもある。
しかし同時に、傷ついた人間が立ち上がる物語は時代を超える。
そのため「99」は今もエピカイの代表作として語り継がれる。
メンバー三人の関係性も、このアルバムには如実に反映されている。
タブロの詩的・自伝的なリリック、ミスラ・ジンのより攻撃的でフロウに特化したスタイル、DJ TUKUYOの音楽的なまとめ役。
三者のバランスがとれているからこそ、「99」は個人の記録であると同時にグループの作品として機能する。
誰か一人のソロアルバムでも、誰かのバックバンドでもない、エピカイという三人組の化学反応がここに記録されている。
「99」はリリースから10年以上が経過した今もなお、エピカイのライブセットリストに欠かせない曲を複数含むアルバムだ。
「Up」「Don’t Hate Me」「아까워」。
これらの曲が時代を超えて愛され続ける理由は、普遍的な感情を扱いながらも、具体的な個人の声として届けているからだ。
タブロが「99%の人に届けたい」と言ったとき、彼は傷ついた人間すべてに向けて語りかけていた。
その言葉は今も届き続けている。
エピカイと韓国ヒップホップの歴史的文脈
「99」がリリースされた2012年は、韓国ヒップホップが一つの転換点を迎えた時代だった。
Mnet「Show Me The Money」シーズン1が2012年に放送を開始し、ヒップホップが一般視聴者に広く知られるようになる直前だった。
エピカイはその変化の波に乗ることも、拒絶することもせず、ただ自分たちの音楽を作り続けた。
その姿勢がこのアルバムにも反映されている。
タブロがスタンフォード大学出身であることは、韓国ヒップホップの文脈では特異な位置付けだった。
学歴と音楽性の両立、インテリとストリートの橋渡し。
そういった複雑なポジションが、タジンヨ事件という形で攻撃の標的になったとも言える。
「99」はその攻撃を受けた後の、純粋に音楽的な返答だった。
このアルバム以降、エピカイは「感情の詩人」としての地位を確立していく。
ラップの技術だけでなく、感情を正確に言語化する能力と、それを音楽として届ける技術の両方が評価されるようになった。
「99」はその評価の出発点として、今も語られ続ける。
韓国ヒップホップが世界に向けて成長していく過程で、「99」が果たした役割を過小評価してはならないと思う。
「Don’t Hate Me」や「아까워」などの楽曲は、10年以上が経った今もストリーミングプラットフォームで多くの再生を獲得している。
それは時代を超えた普遍性の証明だ。
人間の感情の核心を突く言葉は、時代や流行に関係なく届き続ける。
エピカイが「99%の人に届く音楽」を作ろうとしたとき、彼らが目指していたのは流行の音楽ではなく、普遍の感情だった。
そのコンセプトは今も有効だ。
マルのひとこと
タジンヨ事件のことを初めてきちんと調べたとき、人間がどれほど残酷になれるかを改めて思い知った。
それでもタブロが音楽を作り続けたこと、そして「99%の人に届けたい」という方向に向かったことに、僕はずっと励まされてきた。
傷を受けた人間が、その傷を他者への共感に変えられること。
「99」というアルバムはその可能性を証明した一枚だ。
このアルバムを聴くたびに、エピカイの言葉の力をあらためて思い知らされる。


