韓国語なんてわからない。
ラップは好きだけど、言葉の意味は半分も届いていない。
それでも、넉살(ノッサル)の声が流れた瞬間、僕は何かに引っ張られた。
歌詞の意味がわからなくても、このラップが「ただの自慢話じゃない」とわかる瞬間があった。
それがどういうことか、この記事で話させてほしい。
넉살という名前の響きからして面白い。
「넉살」とは韓国語で「뻔뻔스러운 태도(ずうずうしい態度)」を意味する。
自分で厚かましさを名乗るやつが、天下一品のリリシストになったわけだ。
そのギャップが、もうすでにキャラクターとして勝っている。
Show Me The Money 6で2位になったとき、韓国のヒップホップファンはざわついた。
「なんでこいつが1位じゃないんだ」という声が今でも語り継がれている。
そういうラッパーだ。
目次
1. プロフィール
2. ディスコグラフィー
3. 넉살というラッパーの正体
4. 『작은 것들의 신』 — 小さいものの神様
5. Show Me The Money 6、あの夏の衝撃
6. 『1Q87』と넉살の宇宙
7. コラボレーションの引力
8. マルのひとこと
プロフィール
넉살の本名はイ・ジュンヨン(이준영)。
1987年3月24日生まれ、ソウル出身。
2009年、ヒップホップデュオ「Future Heaven」のメンバーとしてデビューした。
その後ソロに転じ、韓国アンダーグラウンドヒップホップシーンで長年活動を続けた。
2016年に初のソロアルバム「작은 것들의 신(小さいものの神様)」をリリース。
翌2017年、この作品でKHA(Korean Hip-hop Awards)のアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞した。
同年、Show Me The Money 6に出演し、全国的に名前が知れ渡ることになる。
2020年には2ndアルバム「1Q87」を発表。
2022年にはCADEJOとのコラボアルバム「Sincerely Yours」をリリースした。
ディスコグラフィー
| 年 | タイトル | 種別 |
|---|---|---|
| 2009 | Future Heaven (デュオ) | デビュー |
| 2016 | 작은 것들의 신 (The God of Small Things) | 1stアルバム |
| 2017 | Show Me The Money 6 参加 | TV出演 |
| 2018 | 1/N (feat. Han-hae, JOWOOCHAN) | コラボシングル |
| 2020 | 1Q87 | 2ndアルバム |
| 2020 | CODE CLEAR (feat. BIBI, Lee Young-ji) | シングル |
| 2022 | Sincerely Yours (with CADEJO) | コラボアルバム |
넉살ノクサルというラッパーの正体
「俺ラップうまい」系のラッパーは世界中にいる。
韓国ヒップホップにも当然いる。
넉살はそのタイプじゃない、と本人が言っている。
インタビューでこう語った。
「俺はラップがうまいことを自慢する歌詞が嫌いだ」と。
日本で言えば、MCバトルよりもフリースタイルダンジョンの文化とは少し違う、もっとナラティブなゾーンにいる人間だ。
彼の歌詞は日常の断片から始まる。
ソウルの路地、家族との記憶、上手くいかない夢、誰かへの言葉。
そういうものが、丁寧に積み上げられて1曲になる。
聴き終わると、歌詞の意味がわかっていなくても「何か重いものを受け取った」という感覚になる。
その重さが、넉살の武器だ。
フローは流麗でパワフル、と言われる。
でも僕が思うのは、파워(パワー)よりも粘りだ。
言葉が皮膚に貼り付くような感覚がある。
一度聴くと、なぜか頭から離れない。
それはリズムの巧みさもあるが、もっと根本的なところで、「この人は本当のことを言おうとしている」という信頼感がある。
韓国語ネイティブじゃない僕でさえそう感じるなら、実際の意味が全部わかる人はどれだけ揺さぶられるんだろう。
そう思うと、ちょっと羨ましい。
『작은チャグン 것들의 신』 — 小さいものの神様
2016年リリースの「作은 것들의 신(小さいものの神様)」。
邦題にしたら、なんてセンスのあるタイトルだろうと思う。
スターでも英雄でもない、「小さいもの」に神様を見出す。
それが넉살というラッパーの視点だ。
このアルバムに参加したラッパーたちがまた豪華で、DEEPFLOW、Don Mills、Paloaltoといった韓国アンダーグラウンドヒップホップの重鎮たちが名を連ねている。
アンダーグラウンドのレジェンドたちが「こいつは本物だ」と認めたアルバムとも言える。
結果、2017年のKHA(Korean Hip-hop Awards)でアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞した。
KHAについてはこちらの記事も読んでほしい。
日本で言えば、コムアイが出てくる前夜のwater melon group系の空気感、とでも言えばいいか。
アンダーグラウンドの誠実さと、ポップな聴きやすさがギリギリのバランスで同居している。
そのバランスが崩れなかったことが、このアルバムの最大の成果だと思う。
僕は「작은 것들의 신」というタイトルを見るたびに、何かを思い出す。
ロンドンの小説家アランダティ・ロイの「小さきものたちの神」という小説がある。
넉살がその本を読んだかどうかは知らない。
でも、小さなものの中に大きな意味を見つけようとする感性は、国を越えて共鳴するものがある。
そういうラッパーがいる韓国ヒップホップが、好きだ。
Show Me The Money 6、あの夏の衝撃
2017年夏。
韓国のラップ番組「Show Me The Money 6」が放送された。
넉살はこの大会で2位になった。
「なんで1位じゃないんだ」という声が出るくらい、圧倒的なパフォーマンスを見せた、ということだ。
日本で言えば、キングオブコント2022の空気感に近い。
誰がどう考えても「こいつが一番おもしろかった」のに、最終結果が違ったとき、視聴者が「????」となる瞬間。
넉살の2017年がまさにそれだったらしい。
でも、ここで重要なことがある。
Show Me The Moneyは결국(けっきょく)テレビ番組だ。
エンターテイメントの文脈で評価される。
넉살のラップは、テレビよりも深いところで機能する種類のものだった。
だから2位でも「本当は1位」と言われる。
そういう評価の仕方をされるラッパーは、実は少ない。
Show Me The Moneyを機に、넉살の名前は一般リスナーにも届くようになった。
アンダーグラウンドのリスナーにとっては「今更かよ」という話だったかもしれない。
でも、そこで初めて出会った人たちが、アルバム「작은 것들의 신」に逆算で辿り着いた。
その逆流が、넉살のキャリアをさらに太くした。
2018年にはHan-hae、JOWOOCHANとのコラボ曲「1/N(N分の1)」が生まれた。
この曲もKHAのコラボレーション・オブ・ザ・イヤー候補になった。
넉살の磁力は、他のラッパーを引き寄せる力もあった。
『1Q87』と넉살ノクサルの宇宙
2020年にリリースされた2ndアルバム「1Q87」。
タイトルからして、村上春樹の「1Q84」とオーウェルの「1984」を掛け合わせていると読み取れる。
넉살の生まれ年は1987年。
「1Q87」は、その3つの数字が交差する個人的な宇宙だ。
このタイトルセンスが、もう全てを語っている。
文学的教養と自分語りを、数字ひとつに圧縮できる人間が作ったアルバムだ。
そりゃ、ただのラップじゃない。
アルバムにはBIBIとイ・ヨンジが参加した「CODE CLEAR」も収録されている。
BIBIといえばK-POPとインディーの境界線を自由に行き来するアーティストで、넉살との相性は抜群だった。
イ・ヨンジも後にフィーメールラッパーとして快進撃を続けるが、この時期の넉살との化学反応は今聴いても新鮮だ。
「1Q87」は1stアルバムとは違うアプローチを取っている。
もっと個人的な内面に踏み込み、もっと音楽的な冒険をした。
넉살が自分の時代を자각(じかく)し始めたアルバムと言えるかもしれない。
アンダーグラウンドから始まった人間が、自分の言語で全国区になる瞬間の記録だ。
日本で言えば、BASIが「VOICE」をリリースしたときのような空気感に似ている。
「このラッパー、もう別の次元に行ったな」と感じる瞬間。
「1Q87」はそういうアルバムだ。
コラボレーションの引力
넉살のコラボレーション歴を見ると、その音楽的な重力がよくわかる。
DEEPFLOW、Don Mills、Paloaltoといったレジェンドたちとの共演。
Han-hae、JOWOOCHANとの「1/N」。
BIBI、イ・ヨンジとの「CODE CLEAR」。
そして2022年のCADEJOとのコラボアルバム「Sincerely Yours」。
このリストを見ると、넉살という人間がアンダーグラウンドとメインストリームの境界線上を歩き続けてきたことがわかる。
誰とでも組めるが、誰に対しても自分のスタイルを曲げない。
そういうラッパーは珍しい。
CADEJOとの「Sincerely Yours」は、コラボ相手としては少し意外に思えるかもしれない。
CADEJOはフィリピンを拠点に活動するアーティストで、넉살との共作はアジア全体への視野を感じさせる。
韓国ヒップホップが韓国語ゲットーに閉じこもらず、アジア全体に広がっていく動きの象徴とも言えた。
넉살は取材でこう語ったことがある。
「ラップを통해(通じて)、誰かの人生に小さな何かを届けたい」と。
アルバムタイトルの「작은 것들의 신(小さいものの神様)」と、このコメントが一致する。
ここで初めて、あのタイトルの意味がスコーンとはまる。
彼は最初から、ずっと同じことを言い続けていた。
「小さいもの」に神様を見る。
その小さいものとは、何気ない日常のことかもしれないし、韓国社会の中で見過ごされてきた人々のことかもしれない。
どちらにしても、넉살というラッパーの目線は常に「普通じゃない場所に向いている普通の目線」だった。
それが、このラッパーの唯一無二な点だと思う。
넉살ノクサルを聴くための入口
넉살を初めて聴く人に、どこから入ればいいか聞かれたら、僕はこう答える。
まず「1/N」を聴いてほしい。
Han-haeとJOWOOCHANとのコラボ曲だが、3人それぞれのラップスタイルの違いが面白いし、넉살のバースが一番光っている。
「あ、このラッパーは言葉の重さが違う」とわかる曲だ。
次に「작은 것들의 신」のアルバムをフルで聴く。
最初から最後まで、ひとつの物語として作られている。
途中でスキップしたくなる曲がない、という体験は日本語ヒップホップでもなかなかない。
そして「1Q87」に進む。
「CODE CLEAR」はシングルとして単体でも楽しめるが、アルバムの流れで聴くと意味が変わる。
ぜひ通しで聴いてほしい。
韓国語がわからなくてもいい。
歌詞の意味は後から追えばいい。
まず、声の質感と、リズムの粘りと、曲が終わった後に残る重さを体感してほしい。
それだけで、넉살というラッパーが「普通じゃない」とわかるはずだ。
韓国ヒップホップシーンにおける넉살ノクサルの位置
2017年以降、韓国ヒップホップは大きく変わった。
BTS、BLACKPINK、そしてK-POPの爆発的な世界展開に引っ張られるように、韓国語の音楽全体への注目が急上昇した。
ヒップホップもその恩恵を受けたが、同時に「人気のあるもの」と「本当に良いもの」の乖離が広がった面もある。
넉살はその中で、ブレなかった。
トレンドに乗ることもなく、かといって変化を拒絶することもなく、ただ自分の音楽を作り続けた。
その一貫性が、넉살というラッパーを「10年後も語られる人間」にしていると僕は思う。
KHA(Korean Hip-hop Awards)は、韓国ヒップホップの質を担保する重要な賞だ。
넉살が初回から高い評価を受けていたことは、アンダーグラウンドシーン全体が「この人は本物だ」と認めていた証明でもある。
KHAについてもっと知りたい人はこちらの記事を読んでみてほしい。
日本で言えば、stillichimiyaの田我流が「B級映画のように」を出したとき、「このラッパーはずっと残る」と感じた人が多かったはずだ。
넉살もそういうタイプのラッパーだ。
時代の寵児というより、時代を超える人間。
そっちのほうが、ずっと面白い。
넉살ノクサルは「言葉の人」だ
ラッパーを「ビートの人」と「言葉の人」に大きく分けるとすれば、넉살は明確に後者だ。
ビートがどんなに良くても、ビートに乗せた言葉が薄ければ、넉살は満足しないだろう。
逆に言えば、넉살の曲はビートが地味でも歌詞で最後まで引っ張れる。
それが「言葉の人」の強さだ。
韓国語の발음(ハルム、発音)の美しさも、넉살の武器になっている。
韓国語は子音と母音の組み合わせがラップに適していて、音の密度が日本語より高い。
넉살はその密度を活かして、一小節に日本語ラッパーの1.5倍の情報を詰め込む。
にもかかわらず、詰め込みすぎた感がない。
それが技術というものだ。
言葉の人としての넉살を最も感じるのは、フックの部分だ。
韓国ラップのフック(サビ)は単純でキャッチーなものが多い中、넉살のフックは一つの短編小説の結末みたいな密度を持っている。
「あ、この曲はここに向かっていたのか」という発見が、フックを聴くたびにある。
そういうラッパーは、世界を見回してもそんなに多くない。
넉살ノクサルの言葉と日本のリスナー
韓国ヒップホップを日本で聴くことは、まだまだ「少数派の趣味」だと思う。
K-POPが爆発的に普及した今でも、K-HIPHOPは一歩引いたところにある。
でも、それがいい。
メジャーになりきっていないジャンルには、本物を探す楽しさがある。
넉살はその本物の中の本物だ、と断言できる。
日本語字幕付きの歌詞動画がYouTubeに少しずつ増えている。
韓国語学習者が넉살の歌詞を教材に使っているという話も聞いたことがある。
確かに、넉살の歌詞は単語レベルでも文章レベルでも丁寧に作られているから、学習素材として優秀だと思う。
でも学習目的じゃなくても、ただ聴いてほしい。
「この人が何を言っているのか知りたい」と思うきっかけが、いつかやってくるから。
넉살の音楽は、日本のリスナーにとって「韓国語を勉強するモチベーション」になり得る。
これは本当の話で、実際に僕もそのひとりだ。
「この歌詞が全部わかったら、もっと面白いだろうな」という気持ちが、言語学習の原動力になる。
音楽の力は、そういう場所まで届く。
넉살ノクサルが描く「ソウル」という街
넉살の歌詞に頻繁に登場するのは、ソウルという街の風景だ。
華やかな江南(カンナム)ではなく、もっと庶民的な路地や、夜の漢江(ハンガン)のほとりや、再開発が進む古い下町の空気感。
そういうものが、音楽の中に立体的に広がる。
日本で言えば、東京の渋谷や新宿を描くラッパーではなく、杉並区の裏路地や、大阪の十三の夜を描くような人間だ。
「中心」ではなく「周縁」を見る目線。
そこに韓国の現代史が滲んでいる。
IMF危機後の世代が大人になり、自分の言葉で歌い始めた時代の記録だ。
넉살は1987年生まれ。
ソウルオリンピックが1988年だから、넉살は「88世代」のすぐ手前だ。
「88年生まれ、どう生きるか」という有名な本が韓国で出版されたのは2011年。
不安定な雇用と競争社会の中で、ギリギリのところで踏ん張る若者たちを描いた本だ。
넉살の歌詞には、その時代の空気が染み込んでいる。
「小さいものの神様」というタイトルは、だから単なる詩的なタイトルではない。
社会の中で小さく扱われてきたものたちへの、ラッパーなりの祈りだ。
その祈りがビートに乗って、聴く者の胸に届く。
それが넉살の音楽だ。
넉살ノクサルのラップスタイルを解剖する
넉살のラップを技術的な観点から見てみよう。
まず、フロウの変化が豊かだ。
一曲の中で複数のリズムパターンを使い分ける。
早口でまくし立てるパートがあれば、ゆっくりと一語一語を噛み締めるパートもある。
その緩急が、歌詞の意味の緩急と完全にシンクロしている。
次に、ライミング(韻踏み)の密度が高い。
韓国語はもともと音節の構造がラップに向いている言語だが、넉살はその可能性を極限まで引き出す。
一行の中に複数の韻が仕掛けられており、聴いていると「あ、ここでも踏んでいる」という発見が連続する。
まるで仕掛けが多いミステリ小説を読む感覚に近い。
そしてダブルミーニング。
넉살の歌詞には、表面上の意味と隠された意味が同時に存在する場合が多い。
韓国語がわかるリスナーは何度も聴き直して「あ、そういうことか」と気づく、と言う。
その仕掛けの巧みさが、넉살の歌詞を「消費コンテンツ」ではなく「読み込む作品」にしている。
日本のラッパーで似た技巧を持つ人を挙げるとすれば、KOHHよりもMETEORや般若に近い、と思う。
言葉の量とスピードで圧倒するタイプではなく、一言一言に重さと密度を持たせるタイプ。
「上手いから聴く」ではなく「このラッパーの次の言葉が聴きたいから聴く」という引力がある。
CADEJO との「Sincerely Yours」が示したもの
2022年のコラボアルバム「Sincerely Yours」は、넉살のキャリアの中でも特別な位置を占める。
CADEJOはフィリピンのアーティストで、넉살とは一見して接点が薄そうに見える。
しかしこの組み合わせが、予想を超えた化学反応を生んだ。
「Sincerely Yours」というタイトルは手紙の結びの言葉だ。
「敬具」「かしこ」に相当するフレーズ。
アルバム全体が、誰かへの長い手紙として作られている。
그 누군가(その誰か)が誰なのかは、聴く人によって変わるだろう。
넉살という人間が、韓国ヒップホップというローカルな場所から出発して、アジア全体に向けて声を発した瞬間だ。
K-POPのように国際展開を計算して作ったわけではない。
ただ、「この人と一緒に音楽を作りたい」という衝動が、国境を越えた。
その自然さが、「Sincerely Yours」の最大の美点だと思う。
넉살のキャリアを追いかけていると、「このラッパーは次に何をするんだろう」という期待感が常にある。
予定調和なことをしない人間が、予定調和なことをしないままに大きくなってきた。
それは珍しいことで、貴重なことだ。
これからも目が離せない。
マルのひとこと
넉살を初めて知ったとき、「こんなラッパーが日本にいたら絶対に追いかけてた」と思った。
歌詞の意味が全部わかる言語で、このレベルの言葉を積み上げてくれるラッパーがいたら、どれだけ嬉しいだろうか。
逆に言えば、言葉の意味がわからなくてもここまで届いてくるということは、넉살の音楽は翻訳不要なのかもしれない。
あの声と、あのリズムと、曲が終わった後の静けさ。
それだけで十分だ、と思っている。



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