『Epik High Is Here 下』を聴いた日。

K-HIPHOP

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10집チプの下巻は、上巻より静かだった。
宣言の時代が過ぎて、引退を予感させるアルバムだとレビュアーたちは書いていた。
聴いてみると、その感覚はわかる気がした。

2022年、Part 1からわずか数ヶ月後にリリースされた「Epik High Is Here Part 2」は、同じタイトルの二部作の後編だ。
前作が「生存の宣言」として外へ向けられた声を持っていたとすれば、Part 2は内側へ向かっていく。
家族、過去、自己嫌悪、そして二十年という時間の意味。
エピカイというグループが積み上げてきたものの重さを、静かに確かめるようなアルバムだ。

「Piano for Sale」という41秒のインストゥルメンタルから始まり、「Champagne」という祝祭で終わる。
その間に、タブロの父への追悼があり、ミスラ・ジンの家族への愛があり、2003年の初ライブの映像が蘇る。
「Epik High Was Here」ではなく「Epik High Is Here」。
現在形の存在証明として、このアルバムは二十年のキャリアを俯瞰しながら、終わりではなく続きとして位置付ける。


【目次】
1. アルバム概要
2. リリース背景
3. 収録曲解説
4. アルバムの意義と評価
5. マルのひとこと


アルバム概要

項目 内容
アーティスト Epik High (エピカイ)
アルバムタイトル Epik High Is Here (Part 2)
リリース年 2022年
レーベル HYBE / Big Hit Music
収録曲数 12曲
主なフィーチャリング Younha、Wonstein、pH-1、Giriboy、Lee Hi、Colde、Kim Feel
プロデュース Tablo、Mithra Jin、DJ Tukuyo

リリース背景

Part 1と同年にリリースされたPart 2は、前作と対を成す作品として設計されている。
Part 1が「生存者の宣言」であれば、Part 2は「生き続けることの記録」だ。
勝利の宣言ではなく、傷を持ちながら続ける人間の、そのままの姿をとらえようとしている。

このアルバムで最も注目すべき背景は、タブロと父の関係だ。
タジンヨ事件の最中に父親を失ったタブロは、その喪失を長い時間をかけて音楽に昇華してきた。
「Family Portrait」という曲はその集大成とも言えるもので、二十年のキャリアと家族という概念を「家族写真」というメタファーで繋ぎ合わせる。
グループの音楽史と個人の人生史が、このアルバムで初めて明確に重なり合う。

またPart 2では、2008年に共演したユナとの再会が実現している。
「Gray So Gray」は「Umbrella」から13年後のコラボレーションであり、あの頃と今とで何が変わり、何が変わらなかったかを静かに問う。
時間が経つことで厚みを増す音楽の力を、このアルバムは存分に活かしている。

このアルバムのゲスト陣は、Part 1とは性格が異なる。
Part 1が「生存者の連帯」を示すゲストを選んだとすれば、Part 2のゲスト(Younha、Lee Hi、Colde、Kim Feel)は「親密さ」と「時間の重なり」を体現するアーティストたちだ。
長年の共演者との再会、新しい世代との対話。
二十年という時間が生み出した人間関係の豊かさが、このアルバムに反映されている。

収録曲解説

01 Here

わずか41秒のオープニングトラックだ。
「ここにいる(Here)」という一言から始まり、些細なきっかけで記憶の扉が開く様子が綴られる。
Part 1との橋渡しであり、過去の批判や論争を乗り越えてきた自分たちへの確認でもある。

短いが、その短さがかえってパワフルだ。
エピカイが「いた」のではなく「ここにいる」という現在形の宣言として機能する。
一枚のアルバムの導入として、これだけ潔く「存在証明」を打つことができるのは、二十年のキャリアがあるからこそ。
「Here」という一語が、アルバム全体のテーマを圧縮して提示する。

02 Prequel (プリクエル)

「序章」と訳されるこの曲は、望みを宣言に変える力を持つ。
二十年のキャリアを経てなお、自分たちがいる場所への権利を主張するマニフェストだ。
これまで育ててきたコミュニティへの感謝と、まだ終わっていないという意志が入り混じる。

ビートが入ってくる瞬間の高揚感は、この曲が「始まりの曲」ではなく「続きの曲」であることを体感させる。
「序章」というタイトルが示すのは、彼らにとってまだ本番は続いているということだ。
過去を前置きと呼べるほど、未来に向かっている。
二十年が「序章」だとすれば、これからが「本編」だという、静かに大きな宣言がここにある。

03 Super Rare feat. Wonstein, pH-1

バイラル動画を量産する時代に、「本物のレア」とは何かを問う曲だ。
食べ物でも音楽でも自分自身でも。
本当に稀なものの価値を軽快に讃える。
ウォンスタインとpH-1を迎えたカジュアルなやり取りは遊び心に満ちているが、その底には「消費されやすいものに流されるな」という静かな抵抗がある。

三者三様のフロウが心地よく絡み、アルバム中で最も開放的な空気を持つトラックだ。
「レア」であることへの肯定は、マスに迎合することを拒んできたエピカイ自身へのセルフ・リスペクトでもある。
SNS時代における「本物」とは何かという問いを、重くなく、しかし軽くもなく届ける技術がここにある。

04 Face ID feat. Giriboy, Sik-K, JUSTHIS

「Face ID」は、コロナ禍にマスクで顔を覆い続けた時代の曲だ。
素顔を見せたい、顔の見える場所に帰りたい。
タイトルの「Face ID」は顔認証技術への参照でもあり、「顔が分かってもらえない世界」への皮肉でもある。
GiriboyとSik-K、JUSTHISを集めた速射砲ラップバトルで、その叫びを形にした。

四人のラッパーが交互に素顔への渇望を吐き出していく構成は、このアルバムで最もエネルギッシュなトラックだ。
マスクで顔を隠すことを強いられた時代に、「顔を見せてくれ」「顔を認識してくれ」と叫ぶことの切実さ。
感染対策という文脈を越えて、自分の存在をちゃんと見てほしいという普遍的な叫びとして届く。

05 BRB

“Be Right Back”。
すぐ戻るという一言が、パンデミック時代の別れと孤立のすべてを包む。
予定は止まり、会えない時間が続いた。
それでも「近くにいる」という確信を手渡す曲で、距離があっても消えない繋がりを歌う。

チャットやSNSのスラングをタイトルに据えながら、その向こう側にある人間同士の温度を描き出す。
「そのうちまた会おう」という言葉がどれほど難しかった日々を、エピカイはその時代に生きながら記録した。
生活の断絶という経験をきわめて親密な言語に翻訳したトラックだ。
テキストメッセージで「BRB」と送ることの裏にある、会いたいという感情を丁寧に掬い取っている。

06 I Hated Myself

「防音の空っぽの部屋で上げた叫び」。
タブロがこの曲を説明した言葉そのものが、この曲のすべてだ。
自己嫌悪、内省、心の奥底をさらけ出すピュアなラップトラック。
エピカイの曲の中でも特に個人的なこの一曲は、完成されたものを届けるのではなく、壊れているものをそのままぶつけてくる。

TaJinYo事件、家族の死、成功と孤独の矛盾。
それらすべてを経てきた人間が「自分を憎んでいた」と告白することの重さは、軽々しく言語化できない。
傷跡を芸術にする表現者の核が、ここに剥き出しになっている。
サブタイトルの「タブロの世界」は、その声が届く世界の狭さと同時に、届く人間の深さを示している。

07 Rain Song feat. Colde (コルデ)

雨、古い歌、酒。
移ろいの三つのイメージを絡ませながら、前へ進めない夜を描く。
ソウルの雨の日の喫茶店に似合うオルタナティブR&Bで、コルデのメロウなボーカルが記憶の柔らかな部分を突いてくる。

「もう大丈夫」と言えない人のための曲であり、まだ懐かしんでいていいという許可でもある。
雨は過去とともにあり、それを流してもくれるが、また降ってくる。
そのサイクルから逃げるのではなく、ただ雨の中に座っているような曲だ。
コルデとエピカイの声の相性は、この哀愁に満ちたテーマのためにあったとしか思えない。

08 Rich Kids Anthem feat. Lee Hi (イ・ハイ)

「お金持ちの子どもの賛歌」というタイトルは皮肉だ。
この曲が讃えるのは高価なものではなく、小さな個人的な勝利だ。
自分が選んだ道、自分だけのスタイル、誰かに認められなくても輝いているもの。
イ・ハイのボーカルとともにパーティーソングのように展開しながら、その実は自己肯定のアンセムだ。

「裕福な子供」とは生まれでなく、自分を大切にできる人間のことを指している。
疲れ果てた日にも「今日の私はよくやった」と乾杯できる、その精神の豊かさ。
そういうメッセージが、派手なビートの裏側に仕込まれている。
イ・ハイという、YG在籍後フリーランスとして独立したアーティストのボーカルが、この「自分だけの豊かさ」というテーマに重なる。

09 Gray So Gray feat. Younha (ユナ)

「Gray So Gray」はユナとの再会だ。
2008年の「Umbrella」から13年後のコラボレーション。
「가진ガジン 것을ゴスル 다ダ 준다ジュンダ 했지ヘッジ?(持っているものを全部あげると言ったよね?)」
「약속대로ヤクソクデロ 내ネ 모든モドゥン 상처를サンチョル 주네ジュネ(約束通り、自分の傷を全部あげてしまったね)」。

「Umbrella」が傘を失う恐怖を描いたなら、「Gray So Gray」は自分の傷が相手を傷つけてしまう関係の加害性を描く。
13年で、テーマが変わった。
若い頃は失うことを恐れ、大人になると傷つけることを恐れる。
その変化が、エピカイとユナの声の成熟によって自然に示されている。

10 Piano for Sale (Interlude)

「まだ十分に動く埃っぽい古いピアノ」を売る、という一行のタイトルだけがある約1分のインストゥルメンタルだ。
歌詞はない。
その後に続く「Family Portrait」という曲が家族の喪失を描いているから、このピアノは誰かが手放さざるを得なかったものの象徴なのだと思う。
1分間の無言が、何かの終わりを告げていた。

「まだ十分に動く」のに売らなければならない理由。
誰かの事情がそこにある。
引っ越し、離別、経済的な困窮、あるいは死別。
どんな理由であれ、「まだ動くのに」という一言が、手放すことの痛みを鮮やかに示す。
言葉のないこのインタールードが、続く「Family Portrait」への最も静かな橋渡しとなっている。

11 Family Portrait feat. Kim Feel (キム・フィール)

アルバム中で最も長く、最も重い一曲だ。
タブロはTaJinYo事件の渦中に父を失った経験を振り返り、ミスラ・ジンは「生活は良くなったが、親と過ごせる時間は減っていく」という現実と向き合う。
「家では、沈黙もご飯と同じくらい神聖だった」。
キム・フィールのメロディに乗せて語られる家族の記憶は、個人史を超えてリスナーそれぞれの家族を呼び起こす。

エピカイというグループが費やしてきた時間の代償と贈り物。
どちらも家族という形を通して語られる。
二十年のキャリアを「家族写真」というメタファーで捉えることで、成功の物語がいかに多くのものと引き換えだったかが静かに浮かび上がる。
このアルバムで最もゆっくり聴くべき曲だと思う。

12 Champagne

アルバムの締めくくりに流れる音声は、2003年のエピカイ初ライブの映像から取られた。
誰も知らなかった頃のパフォーマンス。
その記録が、二十年後の今、「乾杯」の言葉と共に蘇る。
「Epik High was here」という言葉は過去形ではなく、存在した証明として永遠に刻まれる。

華やかな終幕でありながら、どこか胸が締まる一曲だ。
シャンパンの泡が弾けるような高揚感の中に、「ここまで来た」という静かな驚きがある。
二十年間をかけて積み上げてきたものへの感謝を、派手でなく正直に表現したクロージングだ。
エピカイは確かにここにいた、そしてここにいる。

アルバムの意義と評価

「Epik High Is Here Part 2」は、エピカイの二十年を一つの場所から俯瞰するアルバムだ。
Part 1が「今ここにいる」という宣言だったとすれば、Part 2は「ここまでどうやって来たのか」という回想と整理だ。
2003年の初ライブの音声で幕を閉じることで、二十年という時間が円環として閉じられる。

音楽的な成熟という点でも、このアルバムは際立っている。
「Rain Song」のオルタナR&B、「Family Portrait」の映画的な展開、「Champagne」のドキュメンタリー的な締めくくり。
ヒップホップという出発点を持ちながら、音楽のジャンルという概念を軽々と越えていく。
それがエピカイというアーティストの唯一無二の強みだ。

二部作を通じて、「Epik High Is Here」というプロジェクトは韓国音楽史に残る一章を書いた。
パンデミックという時代、HYBE移籍という転換点、二十年という節目。
すべての文脈が重なった場所に生まれたこの作品は、エピカイというアーティストの全体像を最もよく映し出すものの一つだ。

二部作として完成する物語

「Epik High Is Here」を Part 1 と Part 2 の二部作として聴くとき、全体像がより明確になる。
Part 1が「外へ向かう声」ならば、Part 2は「内へ向かう声」だ。
Part 1の「生存者の連帯」が複数の声で構成されているのに対し、Part 2は「エピカイ自身の声」により近い。
二枚合わせて、存在の外側と内側の両方が語られる。

「Family Portrait」というタイトルは、二部作全体のサブタイトルにもなりうる。
エピカイとそのフィーチャリングゲストたち、エピカイとそのリスナーたち、エピカイとその家族たち。
すべての関係性が「家族写真」というメタファーで繋がる。
写真は時間を止め、しかし時間が経つほどに意味を深める。
「Champagne」でその写真が2003年から取り出されるとき、二十年という時間が一瞬に収縮する。

Part 2のゲスト陣には、エピカイとの「時間の積み重ね」を体現するアーティストが揃っている。
ユナとの「Gray So Gray」は2008年の「Umbrella」から続く13年の物語だ。
「Umbrella」では雨に濡れることを恐れながら傘を持たない二人を描いたが、「Gray So Gray」では自分の傷が相手を傷つけてしまうことへの恐れを描く。
13年という時間が、愛についての問いをどれだけ深化させるかを、二つの曲が如実に示している。

「Piano for Sale」というインタールードと「Family Portrait」の組み合わせは、このアルバムで最も映画的な場面だ。
言葉なしで何かが失われる気配を告げ(Piano for Sale)、その後に失われたものの意味を語る(Family Portrait)。
この二曲の流れを体験するとき、「Epik High Is Here Part 2」が単なる音楽の集まりではなく、一つの映画的な体験として設計されていることがわかる。

「Champagne」で使われた2003年の初ライブの音声は、エピカイが意図的に保存してきた音源だろう。
20年後に使うと決めて保存していたのか、それとも偶然残っていたのかはわからないが、どちらであれその選択は象徴的だ。
最初の声から最新の声まで、二十年という時間が一つのアルバムの最後に収まる。
「Champagne」を聴いた後、シャンパンの泡が消えていくような余韻が残る。
それがこのアルバムを聴き終えた感覚だ。

二部作が完成することで見えてくるエピカイの総体

「Part 1」と「Part 2」を続けて聴くと、エピカイという存在の全貌がより立体的に見えてくる。
「Part 1」が社会への視線と怒り、連帯の宣言を軸にしているとすれば、「Part 2」は個人の内面と感情の繊細さ、そして時間の流れを軸にしている。
二作合わせて初めて、エピカイが「外」と「内」の両方を語る存在であることが明確になる。
ヒップホップアーティストとしての批判精神と、詩人としての内省が両立している。
この二面性こそが、エピカイが二十年間にわたって多様なリスナーを引きつけてきた理由の一つだ。

フィーチャリング陣の面々も、「Part 2」の内省的なトーンを体現している。
ヨナは透明感のある声で哀愁を表現し、イ・ハイは深みのある音域で感情の重さを加え、コルドとキム・フィールは穏やかな夜の空気を運ぶ。
「Part 1」のCL、ZICOといった強い個性とは対照的な、静かで深い声たちが「Part 2」に集まっている。
この対比も、二部作が一つの設計のもとで作られたことを示している。
タブロがゲストを選ぶ眼力は、「Shoebox」の頃から変わらずに鋭い。

「Epik High Is Here」二部作は、K-POPが世界市場で爆発的に拡大する時代の中で制作されたヒップホップアルバムとして、特別な位置を占める。
ダンスやビジュアルではなく、言葉とビートだけで勝負するというエピカイの姿勢が、グローバル化した韓国音楽の中で異彩を放った。
そのことはかえって、エピカイの音楽が「韓国語の詩」として聴かれることの意義を高めた。
言葉の意味を追わずとも伝わる何かがあり、意味を知ればさらに深く沈む。
「Champagne」の最後の泡が消えるまで、このアルバムは聴く者の時間を静かに支配する。

「Part 2」は「Part 1」と同じ年にリリースされた点にも注目したい。
2022年の前半と後半に分けてリリースすることで、エピカイはリスナーに「待つ時間」を与えた。
「Part 1」を繰り返し聴きながら「Part 2」を待った期間は、それ自体がアルバム体験の一部だった。
その構造は、音楽を消費するのではなく、音楽と共に過ごすことを促している。
こうした設計もまた、エピカイが音楽に対して持つ丁寧な姿勢の表れだ。
二部作全体を通じて、エピカイは「聴く行為そのもの」を大切にするアーティストとしての哲学を示した。

マルのひとこと

「Champagne」を聴いたとき、2003年の初ライブの音声があんなに生々しく残っていることに驚いた。
二十年を経て、あの頃の声を今の場所から聴く体験は、エピカイのリスナーでなくても何かを思い起こさせる力がある。